「数えられるものだけが現実」という思い込み── 実数主義という、近代四〇〇年の無意識
自然は数学の言語で書かれている、という宣言
この信念の起点は、四〇〇年前の一人の物理学者にさかのぼる。Galileiは「自然という偉大な書物は数学の言語で書かれている」と宣言した。物体の落下を時間と距離の関数として書き、それを数式で展開する。これが自然を知ることの正しい形だ、と。
この一歩には、本人も意識しないほど深い前提が二つ折りたたまれていた。第一に、自然の中身は数学的に捉えられるものに尽きる、という存在のレベルの主張。第二に、色・香り・温かさ・価値といった数学にのらないものは、自然の側ではなく、こちらの主観の側にある、という線引きである。この二つが結びついた瞬間に、近代科学のプログラムが立ち上がった。──実在するものとは、数値として書き取れるものである。
「逆立ち」が起きる瞬間
ここで一つ、見落とされやすい反転が起きる。Husserlが鋭く指摘したことだ。もともと数式は、目の前の豊かな経験を整理するための道具だった。波長は色を扱うための、周波数は音を扱うための、いわば手段だった。ところがある時点で、この関係が逆立ちする。
波長という数値の方が「本当の実在」に格上げされ、実際に見えている赤や青の方が「主観的なイメージ」に格下げされる。手段だったはずの数学化が、いつのまにか経験そのものの土台に居座る。Husserlはこの逆立ちを「危機」と呼んだ。私たちが「数値こそ現実」と感じてしまうのは、この逆立ちをそうと気づかずに引き継いでいるからである。
そして、人間そのものが数値化される
この構えは物理学の中にとどまらなかった。二〇世紀後半には、心を脳の物理状態へ還元する立場として、二一世紀には宇宙そのものを巨大な計算とみなす世界観として、形を変えながら広がっていった。
そしてついに、人間そのものへ到達する。エビデンスにもとづく政策決定、QALYによって命の価値を数値に置き換える効果的利他主義(Effective Altruism)、AIによる最適化判断、KPIによる人の働きの評価。Galileiが自然に対して行った数学化は、いまや人間に対して行われている。これらはすべて、同じ一つの構えの、領域ちがいの実装にすぎない。この立場を、村主論文の拡張虚数理論シリーズでは実数主義(R-ealism)と呼ぶ。
見落とされる「余剰」
どれほど精密に数えても、対象には必ず、まだ立ち上がっていない何かが伴う。記述が捉えられるのは、すでに形になった結果だけだ。その形が立ち上がってくる手前そのものは、どんな数値の中にも書き込まれていない。実数主義は、この取り残されるものを「主観的なもの」「いずれ説明される仮象」として、現実の外へ追い出してきた。
だが、追い出しても消えるわけではない。それは、記述がどうしても閉じきれないという構造そのものとして残りつづける。
「誤り」ではなく「狭さ」
ここで強調しておきたいのは、実数主義を全否定するわけではない、ということだ。自然を数学化する手つきは、近代以降の科学の累積的な成功を支えてきた、人類の知の最良の部分である。手段としては、これ以上なく有効だ。
斥けられるべきは一点だけ──その方法論的な成功を、「世界そのものの完全な記述」とイコールで結んでしまう、その一歩である。地図がどれほど精密でも、地図は土地そのものではない。
実数主義は誤っているのではなく、狭いのである。
実数Rが、より広い複素数Cの一部(実部)にすぎないように、数値で描かれた現実もまた、より広い実在のごく一部にすぎない。測れないものを「気のせい」として切り捨てる前に、自分がいま、どの座標系の中でものを見ているのかを一度疑ってみる。視座プラスが「構造視力」と呼ぶのは、まさにこの一歩のことである。
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