村主第四論文『実数主義の極北』が完成!──「実数主義は誤っているのではなく、狭い」
拡張虚数理論シリーズの第四論文『実数主義の極北 ── 還元的物理主義の果てに』を書き上げました。これまでの三本とは、書き方の向きが大きく違う論文です。誰一人気にしてないこととは理解しつつ、今日はその「向き」の話をさせて頂きたいなと。
はじめて、外側から書いた
第一論文から第三論文まで、あるルールを自分に課してきました。虚次元iDの側を直接は語らず、実次元Dの記述に徹する、という構造的回避の原則です。語りすぎれば、虚次元はたちまち手前へ退いてしまう。だから、まわりを丁寧に描くことで、その輪郭を浮かび上がらせたいなと。
今回は、この自己制限を一度だけ解きました。シリーズがこれまで暗黙のうちに向き合ってきた対立項 ── 「世界は実次元Dだけで閉じる」とする立場そのものを、正面から主題にしたのです。
相手の論理だけで、外部を開く
とは言え批判のパートでは、虚次元の側からの議論を一切持ち込みませんでした。使ったのは、相手──実数主義──自身の論理だけです。相手がその論理を極限まで貫いたとき、相手自身の手で外部が開いてしまう。その地点を示すことに専念しました。
貫いた果てに現れるのが、記述の非閉鎖性です。経験・意味・出来事のいずれの局面でも、記述は立ち上がった結果は捉えられても、それが立ち上がってくる手前そのものは、必ず取り残す。これは外からの異論ではなく、記述という営みそのものの内側から生じる限界でした。
実数は、複素数の実部にすぎない
では、その取り残された余剰を、どう書くか。ここで数学からひとつの発想を借りました。実数Rが代数的に閉じないとき、数学は実数を貶めも、空席を置いたままにもしませんでした。Rと直交する新しい一本の軸 i を最小限に増設して、体系を閉じさせた。i はRの外にあるけれど、架空ではない。Rと結びついて、はじめて体系を完備にする。
虚次元iDがDに対して占める位置も、これと変わりません。iDは新しく発見された実体の名ではなく、「Dとは独立な一本の記述方向として書く以外にない」という、その事態に与えた名なのです。
否定ではなく、包含
だからこの論文は、実数主義を叩き潰すための論文ではありません。むしろ逆です。拡張実在論は、実数主義が「主観的なもの」として切り捨ててきた質・意味・形相をまずDの正当な成分として実在に回復し、その上で、いかなる記述もなお取り残す立ち上がりの手前を、iDとして実在の側に置き直す。実数主義がDの領域で達成した精緻さは、そっくりそのまま自分の一部として保ちます。
実数主義は誤っているのではなく、狭いのである。
この一文に、論文のすべてが集約されています。数値で描かれた現実は、間違っているのではない。それは、より広い実在の実部にすぎない。ただこれを言いたいがためにひたすら難しい表現をこねくり回してみたので、是非皆さんこの機会に日本語版もあるので読んでみてください。
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