「分かり合えない」と感じるときは”視座”が違っている──相手の立場に立つ、の本当の意味
同じ言葉を話しているのに、話が通じない。 何度説明しても、相手の顔が曇っていく。価値観が違う、で片付けてしまえばそれまでだが、そう片付けるたびに、少しだけ人間関係に疲れていく。
僕らが「分かり合えない」と感じるとき、本当に起きていることは、意見の対立ではないのかもしれない。
気持ちを想像するとは、視座を想像すること
他人の気持ちがわかる、と言うとき、僕らはいつも少し慎重になる。
気持ちは、感情だけでできているわけじゃない。その人が、どんな地面に立っているか。どんな歴史を背負っているか。何を当たり前だと思い、何を例外だと思っているか。そうした視座ぜんたいが、感情のかたちを決めている。
だから、気持ちを想像する、というのは、本当は、気持ちの発生源である「視座」を想像する、ということでもある。
他人の視座に、完全には立てない
当然、他人の視座に完全に立つのは不可能だ。
育った場所も、時代も、身体も、違う。同じ言葉を使っていても、その言葉が背負ってきた重みは、ひとりひとり違う。
それでも、想像をやめた瞬間に、世界はとても狭くなる。
相手を「自分とは違う視座に立っている人」として見ることができなくなると、人は簡単に、「間違っている人」「わかっていない人」と切り捨てる側に立ってしまう。分かり合えない、という感覚は、実はこの切り捨ての手前で起きている。
“相手の立場に立つ”は、正解を出すことではない
「相手の立場に立って考えよう」とよく言われる。けれど、この言葉はときどき、重たく響く。
他人の視座に立とうとすることは、正解を出すことではない。 「自分の見え方が、すべてではない」と、まずは認めることから始まる。
認めるだけで、ずいぶん違う。相手の言葉を、自分の地図のうえに無理やり置き直さなくてよくなる。別の地図があるかもしれない、と思えるようになる。そこには自分が想像できない斬新なルールがたくさんある。
相手の立場に立つ、の本当の意味は、相手の答えを当てることではなく、相手の地図の存在を認めることだ。
分かり合えないのは、意見ではなく視座が違うから
他人と分かり合えない、と感じるとき、たいていは、意見が違うのではなくて、視座が違う。
意見の議論は、どこまでいっても平行線になることがある。同じ土俵で「どちらが正しいか」を争っている限り、すれ違いは埋まらない。
でも、視座の違いに気づいたとき、話し合いは、むしろ深みが増す。「なぜこの人は、そう見えているのか」という問いに変わるからだ。問いが変わると、人間関係の景色そのものが変わる。
世界が、前より少しだけ優しくなる
他人の視座に、完全には立てなくていい。 ただ、「そこにもうひとつの視座がある」と、意識しておくことから始める。それだけで、分かり合えないという感覚は、敵意ではなく、好奇心に近いものに少しだけ座標が変わる。
その時、世界は、前よりも少しだけ優しくなる。
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