視点と視座の違い──「自分を変えたい」と思っている人が、本当に変えるべきもの
物の見方が根本から変わる、「視座」という概念
- 物の見方が根本から変わる、「視座」という概念
- 「視点」と「視座」——似て非なる、この決定的な差
- 見ている世界は、立っている場所が作っている
- 井戸を掘り続けても、空には届かない
- 知識を積み上げることと、視座を変えることは、まったく別の運動
- 視座を変えるとは、いったん降りること
- その恐怖の先にしか、本当の自由はない
- 終わりなき視座拡張の旅へ
- 世界は、自分が思うよりずっと広い。そして自分自身も、まだまだ広い
- 遊び心とは何か──ふざけることではなく「決まったものをずらす」力
- 子供の才能を伸ばすには── 正しい育て方は存在しない。親が用意できるのは「場」だけだ
- なぜ、人間を関数として表現するのか── 抽象化して具現化するという操作
「視点」と「視座」——似て非なる、この決定的な差
見ている世界は、立っている場所が作っている
人の見方というのは、単純なようで複雑で、自由なようで制限だらけだ。
同じ街を歩いていても、旅行者と、そこに長年暮らす人と、ビジネスの打ち合わせのために来た人とでは、見えているものがまるで違う。建物の高さも、街角の花の色気も、朝の匂いも、それぞれが立っている視点から立ち上がってくる。
視点は、どこをどこから見ているかの話。視座は、その見ている世界を作っている観察者としての根源の話だ。何を見るか、どこから見ているか、自分で選んでいるように見えて実はほとんど選べていない。気づかないうちに、大いなる制限の中で人の視点は固定されている。
井戸を掘り続けても、空には届かない
知識を積み上げることと、視座を変えることは、まったく別の運動
人は普通、自分の視座の中で、考えを深めていく。本を読み、議論をし、知識を増やしていく。そのどれもが実は、同じひとつの視座の上で積み上がっている。
どれだけ深く掘っても、井戸の底は井戸の底で、空の広さには届かない。掘ることと、外へ出ることは、違う運動なのだ。
視座を変えるとは、いったん降りること
その恐怖の先にしか、本当の自由はない
視座を変える、というのは、考えを変えることではない。立っている場所そのものから、いったん降りることだ。真っ暗闇の中に踏み出して、別の地面に足をつけ、そこから見える景色を、ただ、受け入れる。
それは、思っているよりずっと怖い。これまで信じてきたものが、別の角度から見ると別のものに見えてしまうからだ。自分が変わってしまうかもしれないと、どこかで知っている。
でも、その恐怖の先にしか、本当の自由はない。
終わりなき視座拡張の旅へ
世界は、自分が思うよりずっと広い。そして自分自身も、まだまだ広い
視座の外に、視座を。
そう言ってみると、いま立っている場所が、ほんの少しだけ相対化される。まだ見ぬ地平がある、と思えるだけで、人は息をしやすくなる。
そうやってこの恐怖との戦い方を覚えるのが、視座の拡張に向き合う際の重要なポイントだ。連続的に襲ってくる、踏み越える恐怖への対処法。その先で、新たな自分に連続的に出会うことができる。
世界はいつも、自分が思っているよりずっと、広い。
そして、自分自身も、まだまだ広い。
終わりなき視座拡張の旅へ。
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