本当の優しさとは性格ではなく、視座の高さである── 利他は道徳ではなく、視座の構造の話
優しい人でありたい、ときっと人はみな思っている。 でも、頑張って優しくしていると、どこかで疲れてくる。自然と見返りを求めてしまい、見返りがないと少し虚しくなる。相手に誤解されると、心がすり減る。
「本当に優しい人」と呼ばれる人たちは、なぜあんなに自然体なのだろう。 なぜ疲れず、揺らがず、見返りも求めていないように見えるのだろう。
長いあいだ、僕はそれを性格の問題だと思っていた。 優しい人は、もともと優しい性格なのだと。
でも、どうやら違うらしい。 優しさの正体は、性格や道徳ではなく、世界の見え方の構造だったのだ。
「自分」と「それ以外」を分けている限り、優しさは続かない
狭い視座が、世界を分断して見せる
狭い視座で世界を見ているとき、人はどうしても「自分」と「それ以外」を分けて考える。
自分の利益と、他人の利益がぶつかるように見える。誰かを助けることと、自分を大切にすることは共存せず、どちらかを立てるとどちらかが立たない、トレードオフの関係に感じる。
この構造のまま優しくしようとすると、当然他人のために自分を削ることになる。削れば、減る。減れば、補給しないといけない。補給とは、感謝や評価や見返りのことだ。
これが、「優しくすると疲れる」現象の正体だ。優しい性格が足りないのではない。視座が狭いまま優しくしているから、構造的に疲れるようにできている。
視座が広がると、利他と利己の境界がゆるんでくる
世界の見え方が変わり、行動が変わる
視座が広がってくると、この線引きが少しずつゆるんでくる。
自分の利益と、他人の利益と、まわりの流れが、別々にあるのではなく、同じひとつの流れのなかにあると感じられてくる。
誰かを助けることは、巡って自分も助けることになる。自分を整えることは、結局まわりにも良い波紋を送る。
すると、無理に善い人になろうとしなくても、自然と利他的な選択をしている自分に気づく。 これは道徳的な成長ではない。世界の見え方が変わった結果、行動が勝手にそうなっているだけだ。
視座が高い人の優しさは、「いい人でいよう」という道徳的ながんばりから出ていない。 そのほうが自然だとしか思えない、認識の構造になっているだけだ。
視座が高く、本当に優しい人の優しさが、揺らがない理由
優しさは「行動」ではなく「結果」として自然と現れる
だから、視座の高い人の優しさはあまり揺らがない。
誰かに感謝されなくても、誰かに誤解されても、崩れにくい。 もともと「与えている」という意識が薄いから、見返りも要らない。ただあるがままの自然体でいる。利他という意識も当然ない。
一方で、「我慢して優しくしている」という構造は、燃料がいつか尽きる。 その反動がどこかで生まれる。それが自分に極端に向く人もいれば、他人に別の形で向く人もいる。本当に持続する優しさは、我慢からは生まれない。世界の見え方そのものから、生まれる。
優しくなりたい、という努力は、尊い。利他という言葉を愛し、その人生観を体現し続ける努力は尊敬に値する。 でも、その努力の方向を、視座の拡張に変えてみてほしい。
優しさは、鍛えるよりも、見える範囲を広げたほうが早い。 視座が広がれば、優しさはあとからついてくる。
本当の優しさは、「いい人」であろうとする努力の先にはない。 それは、世界の見え方が変わったときに、気づいたらそこにあるものだ。
利他は、道徳ではない。 視座の構造の、自然な帰結だ。
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