「かわいそう」で終わらせない ── ネパールという鏡が映し出す、自分の中の見えない檻
貧困、宗教、カースト、死生観。ネパールという国には、日本という均質な環境の中では自分から触れにいくことのない「別の論理」が、日常としてそのまま存在している。それは単なる「途上国の実情」ではない。むしろ、自分が「当たり前」だと信じている前提そのものが、実はかなり特殊な条件でしか成立していないことを突きつけてくる鏡である。
「知る」ということがなぜ視座を押し広げる装置になり得るのか。そして「助ける」という行為がいかに自分自身の物差しの投影に過ぎないか。ネパールという国の具体的な現実を手がかりに、その構造をたどってみたい。
発展しない国、という物語の裏側
ネパールは、インドと中国という二つの大国に挟まれ、海を持たない内陸国である。もともと経済発展という概念自体が希薄な山岳民族の文化があり、観光業がかろうじて市場を支えてきた。そこに加えて、いまなお強く残るカースト制度が、社会の構造そのものを規定している。
教育へのアクセスは、そのままカーストと経済力によって二分される。富裕層の子どもは私立校で英語を学び、その英語力を武器に国外へ出て、中東などで外貨を稼ぐ。一方、貧困層の子どもは英語を学ぶ機会自体を持てず、国内に留まり続け、仕事もなく貧困が再生産されていく。個人の努力以前に、生まれた瞬間にどちらの物語を生きるかがほぼ決まっている。
この構造を「かわいそうな国の話」として消費するのは簡単だ。だが本当に問うべきはその手前にある。努力すれば道が開けるという前提そのものが、実はかなり特殊な環境でしか成立していない物語なのではないか、という問いである。
苦しみに理由を与える思考装置 ── カルマという解釈
ヒンドゥー教・仏教をベースとするこの地域では、輪廻とカルマの考え方が生活の隅々にまで浸透している。障がいを持って生まれること、事故で身体の一部を失うこと、それらはしばしば「前世の行いの結果」として解釈される。
この解釈は、当人だけでなく周囲の態度をも規定する。障がいのある子どもが生まれた家庭は、まず働き手を失うという経済的打撃を受け、そこに「カルマの結果だから仕方がない」という宗教的な意味づけが重なる。人身売買の被害に遭うことすら、カルマの解消過程として語られることがある。そうであれば、被害者を「救出する」という行為は、その人のカルマの解消を妨げる行為にすらなり得る、という論理が簡単に成立する。
日本であれば「みんな平等に」という前提から出発する場面で、まったく異なる出発点から社会が組み立てられている。良し悪しの判断を急ぐ前に、まず認識すべきなのは、「苦しみに意味を与える物語」は文化ごとに全く違う形を取り得るという事実そのものだろう。
── 「助けてあげる」という視座そのものを問い直す
ある支援校の給食室の屋根には、無数の小さな穴が開いており、雨が降るたびに水浸しになる。修理にいくらかかるかを心配するのは、我々のように外から来た人間の発想だ。現地では誰も直そうとしない。大がかりな工事でもないし、男手はいくらでもあるのに、放置されている。それは怠慢というより、「雨なんてどうでもいい」という優先順位の中で生きているのか、それか何かもっと他の理由があるのか。
ここにあるのは、優先順位の違いという以上に、「何を問題とみなすか」という物差しそのものの違いである。トイレを作ってあげることは本当に良いことなのか、手洗い場を作ることでかえって不要な習慣を植え付けてしまうのではないか。支援とは、しばしば支援する側の価値観を無自覚に押し付ける行為になり得る。

死者を送る作法 ── 引きずらない、という選択
パシュパティナート寺院では、家族が亡くなれば翌日には川辺で焼かれ、そのまま川に流される。墓は存在しない。輪廻を前提とする思想では、死体そのものに執着する理由がないからだ。遺族は泣きながらも、その場に集まる多くの観光客や観覧者にとって、死は日曜日に人が集まる「観光地的な光景」として成立している。
日本の葬儀のように、長く深く悲しみを引きずる文化とは、明らかに時間の感覚が異なる。これは「薄情だ」という話ではない。悲しみの表現の仕方、死者との距離の取り方そのものが、生きている思想体系によって全く別の設計になっているというだけのことだ。

「枠を壊す」ことを、なぜ繰り返すのか
村主の行動原理はこうだ。自分は強烈に興味の対象が開きやすく、やりたいことが多すぎると思い込める性質を持っている。何でもできると病的に信じ続けられる ── それが勘違いだとしても、そう思い続けられることそのものが自分の特性だと。そして、大きなことを考えるほど自分の能力が発揮される。
ただしこれは「だから皆もそうしましょう」という話ではない。誰もが同じ性質を持ってはいない。問われているのは、自分の枠の中にとどまっている限り、人はどうせ同じ思考を繰り返し、同じ結論に落ち着いてしまうという構造への自覚である。だからこそ、あえて枠を壊しにいく。現地に立ち、日頃固定化された「日本人としてこの時代に生まれた」という前提そのものを揺さぶりにいく。
毎月海外渡航を繰り返してる今でも、海外の空港では少し緊張感がある。 ── 慣れてしまわないこと、違和感を違和感のまま保持し続けること。それこそが、視座を固定化させないための技術である。
視座が動くとは、優しくなることではない
ネパールの現実が突きつけるのは、「かわいそうな国を知って優しくなろう」という単純な話ではない。むしろ逆だ。自分が正しいと信じている前提 ── 努力は報われる、平等は当然だ、支援は善いことだ ── そのすべてが、実は極めて限定された条件のもとでしか成立していない、ローカルな物語に過ぎないという事実に直面させられる。
情報として「そういう国もある」と知ることと、現地の匂いや暑さ、視線の中でそれを体感することの間には、決定的な情報量の差がある。だからこそ、遠い国の現実は、視座そのものを組み替える装置になり得る。
自分の枠がどれほど狭かったかに気づくこと。それは知識の絶対量や質の問題ではなく、思考の構造そのものを一段外側から眺め直す経験だ。そしてその経験は、何も遠い国に行くことだけがきっかけではない。自分の中に染み付いた「当たり前」を、意識的に問い直す思考の型そのものを鍛えることでも、同じ場所にたどり着くことができる。
ただし、圧倒的な情報量という点では、現地に立つことに勝る手段はない。文章がどれだけ詳しく状況を伝えても、匂いも、暑さも、目の前で家族が泣きながら見送る空気も、そこに立たなければ届かない。自分の枠を本気で揺さぶりたいなら、次はその場所に、自分の足で立ってみるという選択肢がある。

【直近予定しているmaaaruドネーションツアー】

各ツアーでは、
・現地のリアルな社会課題や文化に触れる体験
・支援先、支援団体との交流
・「構造で世界を見る」視点のインストール
などを通して、ただの観光ではない“世界との関わり方が変わるツアー”をご用意しています。
▼9月開催 スリランカツアー
昨年11月洪水被害にあい、1/100maaaruとしてもみなさまからのご支援を届けた、
貧困地域にあるRuchilaさんの幼稚園へ訪問します。
式典へ参加、スリランカカレーを作ったり、世界遺産都市への訪問や、
支援者さんであり美容師さんによるドネーションカットまで盛りだくさんなツアーです。
日程:9/8〜13
https://hayashi-travel.com/tours/08sep2026/
▼10月開催 Q-TA氏 同行フィリピンツアー
maaaruのロゴデザインも手掛けるコラージュアーティスト Q-TA氏 同行ツアーを開催いたします!
日程:10/21〜26
maaaru公式LINEでのご案内をお待ちください
https://lin.ee/856UDOC
▼11月開催 NPO法人 JOY Kids’ Theaterさんコラボ カンボジアツアー
ミュージカル教育を届けられているJOY Kids’ Theaterさんとのコラボ企画です。
日程:11/3〜11/8
maaaru公式LINEでのご案内をお待ちください
https://lin.ee/856UDOC
↓関連記事はこちら↓
↓最新の投稿はこちら↓
-
虚時間とは何か── ホーキングが宇宙の始まりに置いた奇妙な時間と、私たちが毎日生きている虚時間
「宇宙の始まりには、虚数の時間が流れていた」──。 『ホーキング、宇宙を語る』でこの奇妙な考えに出会い、頭を抱…
-
未来の不安を消す方法は、未来を考えないことではなく「時間の構造」を変えること
不安を消す方法を尋ねる人の多くは、これを「個人の感情の問題」として立てている。だがこの問いは、もっと上位の構造…
-
時間とは何か── 物理学が消し、哲学が守り、いま座標を得ようとしているもの
「時間とは、何か」 人類最古の問いのひとつだ。そしてこの問いへの探究は、二十世紀以降、二つの正反対の方向へ進ん…


