善意の廃墟から、教育のインフラへ── maaaruが問い直す学校教育支援

世界中に、善意の廃墟がある。
豊かな国の人々が資金を集め、カメラを持ち込み、テレビ番組まで作って建てた学校が、今、誰も使わない廃墟として草に覆われている。
アフリカに、東南アジアに、南アジアに。数えきれないほど。
これは失敗の話ではない。善意の話だ。そして、善意がいかに「建てる」ことに執着し、「続ける」ことを忘れるか、という構造の話だ。
途上国に対する学校教育環境の支援という難解なジャンルに当事者として切り込みたい。
「学校を建てた」という達成感の罠
maaaruというプロジェクトを始める前、僕はこの問いを何度も自分に投げかけた。
なぜ、世界中で同じ失敗が繰り返されるのか。なぜ、善意ある支援者たちが巨額のお金を使い、丁寧に学校を建て、それでも数年後には誰も使わない廃墟になるのか。
答えは単純だった。
「魅せる」ことが目的になっていたからだ。
支援者にとって、学校が完成した瞬間が「達成」だ。テレビカメラが回り、子どもたちの笑顔が映り、涙が流れる。そのシーンが「支援の完成形」として消費される。しかしその翌日から始まる、維持管理、教師の雇用、教材の補充、給食の手配——そういう地味で終わりのない仕事には、カメラが向かない。感動がない。トラブルは当然多発し、支援者の熱量も低下の一途を辿る。
支援とは「イベント」ではなく「インフラ」だ。
しかし多くの人が、インフラではなくイベントにお金を払いたがる。
廃墟から始める教育支援という逆説
maaaruが最初にやったことは、学校を建てることではなかった。
放置された校舎を探すことだった。
世界中にある「善意の廃墟」——すでに建てられ、すでに捨てられた学校を再生する。それがmaaaruの出発点だ。これは資源の有効活用という話ではない。もっと根本的な思想がある。
廃墟から始めることは、「建てる善意」ではなく「続ける意志」を問うことだ。
すでにある校舎を使う。すでにある地域のネットワークを活かす。すでにある教師たちを支える。華やかさはない。スタート地点に感動はない。しかしその分、「続ける」ことだけに集中できる。
ここに学校教育支援の新たな形を提起したい。
今、maaaruは世界30カ国以上、250校を超えるネットワークになった。この数字は、学校をゼロから建てた数だけではなく、トイレを増築したり、校庭の遊具を寄贈したり、天井や床を改築したり、内容は多岐に渡る。
「3億人」という数字の前で思うこと
ユニセフのデータによれば、今この瞬間、就学年齢にありながら学校に通えない子どもが世界に3億人いる。つまり教育支援が必要とされる子供の数だ。
この数字を前にして、僕はいつも二つの感情を同時に持つ。
一つは、焦り。3億人に対して、250校は何ほどのものか。数が足りな過ぎる。スピードが足りない。
もう一つは、確信。250校が今日も「続いている」という事実の重さ。今年もそこを卒業し、また来年新たな子が入学してくる。maaaruというものに触れてくれる子たちが毎年自動的に入学し、いつか、日本への関心や平和への関心を持ってくれたら、それ以上の喜びはない。
善意をどう「設計」するか
支援したいという善意は必要だ。しかし善意だけでは足りない。善意は「感情」であり、インフラは「設計」だ。感情は持続しないが、設計は持続する。
maaaruがやっていることは、善意を設計に変換することだ。
感動を、仕組みに。一時的な関心を、持続的な関与に。個人の善意を、ネットワークの力に。
これは教育支援の話だが、同時に人間の善意というものの本質についての問いでもある。
あなたが誰かを助けたいと思うとき、その気持ちを「イベント」にするのか「インフラ」にするのか。
その選択が、支援のその先を決める。
↓学校教育支援をご希望の方は今すぐクリック↓

↓maaaruの実際の活動について動画はこちら↓
↓maaaru関連の他記事はこちら↓
↓最新記事はこちらをチェック↓
-
名前をつけた瞬間、それは別のものになる── ラベルは説明ではなく、視界の固定である
「あの人はこういう人だ」と言い切ったこと、ないか 人は一日に何度も、誰かに名前をつけている。あの人は保身の人。…
-
「今すぐ役に立つこと」ばかりやる人ほど、価値が上がらないジレンマ──自分の価値は、希少性の掛け算と、評価される時間軸の逆算でできている
「自分の価値を高めたい」と思ったとき、多くの人がまず考えるのは、資格を取る、専門性を磨く、今すぐ役に立つスキル…
-
「向いてる仕事」を探すという発想が、そもそも間違っている── 適性は、入る前ではなく入ったあとに決まる
適職診断を三回受けた。三回とも違う職種が出た。どれもピンとこなかった。 自己分析の本を読み、過去の経験を棚卸し…


