なぜ、人間を関数として表現するのか── 抽象化して具現化するという操作
人間を関数として書く。この形式に、抵抗を覚える人は多い。人を数式で扱うなど冷たい、という反応になる。
だが、この形式を採る理由は明確に示されている。四つある。
四つの理由
第一に、抽象化して具現化することで、複雑すぎるものを単純化して意識下に置ける。人間の全体像は、そのままでは扱いが大複雑すぎる。
第二に、比較・解析・再構成が可能になる。表現形式が揃っていれば、時期による違いも、他者との違いも、同じ土俵で見られる。
第三に、抽象化することで、余分な感情を省くことができる。ここは意図的な設計になっている。
第四に、数式化することで、そこからの汎用性が高まる。項同士の掛け算、項の割断、未発見領域の再定義といった操作が可能になる。
── 感情を省くのは、冷たさではなく手順である
三番目について補足がいる。感情を省くのは、感情を軽視しているからではない。
自分を見つめる作業では、感情が混ざることで判断が曇る。構造を見る工程では一度外し、扱う対象を構造に限定する。その後で、感情の側を別途扱えばいい。
工程の分離であって、価値の否定ではない。
テンソル積という装置
形式化の中で言及されるのが、テンソル積とスカラー積の対比だ。
テンソル積は、相互作用の全体像を空間的に保存する装置として位置づけられる。単に値を掛け合わせて一つの数にするのではなく、組み合わせの構造そのものを残す形になる。
この保存によって、無限級数的な自己の可能性が扱える。
そして、これが内省・内観の中身になる
最後に置かれているのが、この位置づけだ。成功や覚醒とは、自分に内在する関数群をどこまで正確に識別・解析し、成長可能性を見極め、組み合わせて使えるかにかかっている。
自己分析力とは、自己関数を可視化・構造化・再設計する力を指す。そして、自己の関数に向き合い誠意を持って対峙することが、内省・内観と呼ばれる。
つまり、関数として書くことは、内観の代替ではなく、内観そのものの結果とも言える。
多くの人は、自己の内在関数を過小評価しすぎている。それだと、人間としての限界を突破することはできない。
書き出してみると、思っているより項の数は多い。使っていないだけで、存在していないわけではない。いかにそこに根気強く向き合い続けられるか。そこに意識を向かせ続けられるか。
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