人の目が二つあるのは片目を瞑って内側を見るため
様々な動物が当たり前のように二つ持つ、目というもの。
魚も虫も恐竜も人も、なぜか目は二つだ。これは村主の子供の頃からの悩みの一つだったのだが、恥ずかしながらそれなりの学生になってから、それが大いなる勘違いだったことを知る。
二つなのは我々脊椎動物とか、魚みたいな分かりやすい連中くらいで、そこを外れると全然二つじゃない。クモは八つあったり、ホタテなんか外套膜のふちに青い目が二百個近く並んでたり、箱クラゲは二十四個もあったり、逆にケンミジンコは額のど真ん中に一つだけだったり、トンボやハチは複眼の脇にちゃんと単眼が三つあったり。
挙句、バクテリアや菌や植物にいたっては、そもそも目という概念すら無かったり。要するに、目を持つこと自体が生命史のなかじゃ珍しい発明で、「二つが普通」ってのは、たまたま二つ目に生まれたぼくら人間が握りしめてる遠近感バイアスにすぎない。──だけど、ここではそこを無視して、別角度の話。
なぜ人間に目が二つあるのか。それは片目を瞑るため。
片目は外側を認識し、もう片目は内側を見つめる。
外側だけを見つめることが、いかに足りなくて、不完全か。
目を瞑ることは、何も見ないことではなくて、中を凝視すること。
人は目が二つあることを、世界をより広く、より正確に捉えるためだと思っている。視野が広がり、距離が掴め、立体として見やすくなる。確かにそうだ。だがそれは外側に向けた話でしかない。村主が言いたいのはその逆だ。二つあるということは、片方を手放せるということだ。片方を閉じても、世界は崩れない。崩れないからこそ、もう片方を内側に回せる。
外を見る目と、内を観る目。この二つは、本当は対等のはずだ。
なのに現代は、両目をこじ開けて、二つとも外に貼り付けようとしてくる。画面、通知、他人の顔、他人の評価。外側の情報量だけがひたすら膨れ上がって、内側を観る目は、開き方すら忘れていく。退化したホライモリの目みたいに、使われないまま、ただ閉じている。
目を瞑るという行為が、休むことだと思われているのも同じ理由だ。違う。瞑るのは止まることじゃなくて、向きを変えることだ。外の光を遮断したとき、初めて内側に光景が立ち上がる。そこには、外と同じくらい広い世界がある。むしろ、外側の世界がどう映ったかが沈殿していく場所だから、そっちのほうが自分にとっては本物に近い。
もちろん脳の構造上、片目を瞑った状態で中と外を同時に認識して情報処理を行うようにはできていない。だからこそ、これは才能や偶然じゃなく、意志の問題になる。中を観る時間は、放っておいたら永遠に来ない。外側はいくらでも目を奪っていくから、自分で削り取って、確保するしかない。瞑る、というのは、能動的な行為だと再認識したい。
そして、外を見つめる時間のぶんだけ、自分を見つめる時間が失われている。
時間は二つに増えない。目は二つあっても、注げる時間は一つ分しかない。外に全部使えば、内側はゼロのまま一生が終わる。逆に、たまに片目を内に閉じる癖をつけた人間だけが、自分が何を見て、何を感じて、どこへ向かっているのかを、かろうじて掴んでいられる。
いかに目を瞑るか。
何かを見ないためじゃなく、本当に観るために。
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