「運命的な出会い」は、本当に偶然か── 状況の側が組み変わる、という構造の話
「運命的な出会い」という言葉は、しばしばロマンチックな修辞として使われる。
しかし、人生を振り返って「あの人と出会わなかったら」と思える出会いを持つ人は、その出会いが単なる偶然だったとは感じていない。偶然と呼ぶには、タイミングが合いすぎている。能動的に作ったとも言えない。
そこには、ある構造的な事実がある。
出会いはなぜ「説明できない」のか
確率論でも引き寄せの法則でも、捉えきれないもの
出会いは確率の問題だ、と言う人がいる。多くの人と関わっていれば、いずれ縁ある人にも出会う。これは正しい説明の半分だが、半分でしかない。なぜなら、確率論では、特定の人がちょうど特定の節目に現れることを説明できないからだ。
引き寄せの法則だ、と言う人もいる。願えば呼び込める、という話。これも一面の真実を含むが、神秘化しすぎている。願う側の能動的な操作で出会いが生まれるなら、なぜ「全く願っていなかった出会い」のほうが決定的になることが多いのか。
両者ともに、出会いの構造的な特徴を捉え損ねている。
動いているのは、こちらではない
場の側が組み変わる、という構造
運命的な出会いに共通する構造は、こうだ。
出会う側は、特に何もしていない。能動的に動いていない。にもかかわらず、関係性、機会、障害の配置が組み変わっていって、結果として、こちらが向かいたかった方向にいる人と接続される。
ここで動いているのは、こちらではない。状況の側、関係の場のほうが動いている。
これは、こちらが何もしていないという意味ではない。動いていないように見えて、ある重要な働きはしている。それは、場を過剰に決定しない、という能動的な構えを保つことだ。
「こういう人と出会うべきだ」「こうあらねばならない」という枠を強く立てると、その枠にはまらない人や機会は、近づくことすらできない。逆に、その枠を緩めて、自分の周りの場を曇らせずにいると、向こうから到来する余地が開く。
場を整える、とはどういうことか
過剰な準備・過剰な期待・過剰な解釈をしないこと
決定的な出会いは、能動的な探索の結果ではない。
それは、こちらが場を整えたところに、向こうから到来するものだ。
整える、というのは積極的に何かを準備することではない。むしろ逆で、過剰な準備、過剰な期待、過剰な解釈をしないことだ。
場が透明であれば、そこに何かが入り込む余地がある。
場が曇っていれば、たとえ何かが近づいても、それは素通りしていく。
「運命」の正体
過剰に決めていなかった期間が、出会いを呼ぶ
「運命的な出会い」は、本当に偶然か。偶然ではない。しかし、こちらが能動的に呼び込んだものでもない。それは、場の側が動くという、独自の構造を持った事象だ。
人生を振り返ったときに、決定的な出会いとして残る瞬間。そこには必ず、こちらが「過剰に決めていなかった」期間があることが多い。
それが、「運命」の正体かもしれない。
↓村主第二論文『起こりの構造論』はこちら↓

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