「賢い人」と「視座が高い人」は、どう違うのか── 頭の回転と、見えている範囲は、まったく別の話
話が速い。論理が鋭い。反論を封じるのがうまい。
それは確かに「賢さ」だ。ただこれと視座が高いこととは、別の話だ。
この二つは混同されやすい。今回は、簡単にその違いを示してみたい。
賢さとは、地図の上を速く動く力だ
賢さとは、与えられた座標軸の中での処理能力だ。
計算が速い、構造把握の精度が高い、言語化が鋭い。これらは、いずれも「既存の地図の上で動く能力」だ。地図そのものを問わない。地図の上での振る舞いの精度が、賢さだ。
視座が高いとは、見えてる地図の広さそのものであり、更に地図そのものを疑い、別の地図の存在を感じ取れる力だ。今いる地図が唯一の地図ではないかもしれない、と思える力。その疑いが、視座を動かす。
賢い人が必ずしも視座が高いわけではない。時に、賢さは視座の固定を強化する。
精巧な論理が、防壁になるとき
どういうことか。
論理的思考力に優れる人は、自分の視座から導き出した結論を、精密に構築できる。相対的にその構築が精密であると認識できるほど、当然それが正しいと確信しやすい。精巧な論理は、反論を許さないように見える。だから視座を揺らす問いが入ってきたとき、その精巧さが防壁になる。
つまり、賢さが「視座の外に出るチャンス」を事象が起きる。
視座が高い人は、自分の論理が「どこかの特定の地面から見た論理」に過ぎないことを知っている。確信しながらも、疑い続ける。精巧に構築しながらも、「これは一つの見方に過ぎない」と手放せる。その両立が、視座の高さのもう一つの大きな価値だ。
賢い人は答えを出す。視座が高い人は問いを変える
もう一つの違いがある。問いの質だ。
賢い人は「答え」を出すのが速い。視座が高い人は「問い」の次元が変わる。
「どうすれば勝てるか」ではなく、「そもそもこれは戦うべき問いなのか」。「なぜ失敗したのか」ではなく、「失敗という枠組みで見ることは、本当に正しいのか」。「どう説得するか」ではなく、「説得しようとしていること自体に、何かズレがないか」。
問いが変わると、世界の見え方が変わる。視座の高さとは、問いの次元のことだ。より深い問いを持てる人が、より高い視座を持っている人だ。
速さと広さ、どちらが欠けても思考は歪む
賢さと視座の高さ、どちらが大切か、という問いは的外れだ。どちらも必要だが、どちらが欠けても、思考は歪む。
一般的には、賢さが先に育つ人が多いから、意識的に視座を鍛えることが重要になる。そして、比較的簡単に拡張できるのも視座の特徴ではあると思う。
賢くなろうとする努力と、視座を広げる努力は、向きが違う。
賢さは、知識と訓練で育つ。視座は、問いと観察で育つ。
たくさんの情報を仕入れ、より賢くなろうとする人は多いが、今後は少し、視座を拡張するという意識で自分の時間配分を再構成してみてはいかがだろうか。
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