知れば知るほど、知らない範囲は広がる── 欠落ではなく、生成として
「到達できない」という読み方を外す
認識は確かに進んでいる。見えていなかったものが見えるようになっている。これは事実として起きている。
同時に、完全な到達は構造的にできない。どれだけ進んでも、残りが尽きることはない。数学ではこうした関係を漸近と呼ぶ。漸近とは、ある値に限りなく近づきながら、有限の手数では決して一致しない振る舞いのこと。
それは、永遠に届かないゴールに向かって、走り続けているように感じられることもある。
固定されたゴールがあり、そこに永遠に届かない。これは欠落の構造にも見える。足りないものが、いつまでも足りないままでいるようにも見える。
だが実際に起きているのは、それとは違う。現象学の言葉を借りれば、あらゆる認識は「地平」を伴っている。地平とは、いま見ているものの背後に、まだ主題になっていないものとして開けている余白のことだ。一歩進めば地平もまた一歩退き、その手前に新しい景色が現れる。
つまり、増えたのは残りではない。見える範囲のほうだ。知識を円に例えてみると分かりやすい。知識を得れば得るほど円は大きくなる。体積が大きくなるものは必然的に、外周、すなわち未知と接する境界線も長くなる。分からないことが増えたという実感は、円が大きくなった証拠として読める。ただ立ち止まっている人には、この実感は訪れない。
尽きないことを、前提に置く
村主が提唱している拡張虚数理論は、この構造を「記述の非閉包」として扱う。記述は、どれほど重ねても自分自身を閉じきることができず、その外側に必ず余剰を残す。未知が尽きる地点は、原理的に存在しない。
ここで言う余剰は、まだ調べていない残存領域ということではない。調べ尽くしたはずの場所にも、記述が届いた瞬間に新しい縁が生まれ、その縁の向こうが新たな未知として立ち上がる。未知は、知の外に積まれた在庫ではない。知が進むたびに、知そのものが生み出していくものだ。
だとすれば、「すべてを知り尽くす」という状態をゴールに置くこと自体が、構造に合っていない。達成できないから苦しいのではない。達成という形が、最初から存在しないのである。15世紀の思想家ニコラウス・クザーヌスは、この自覚を「知ある無知」と呼んだ。自らの無知を知る無知は、無自覚な知よりも先にいる。
逆に言えば、「全部分かった」という感覚が訪れたときこそ、進んでいないことを疑ったほうがいい。見える範囲が広がっていないから、残りも増えていないだけかもしれない。
── 手応えの測り方を入れ替える
分かったことの量で測ると、進むほど手応えは薄くなる。残りの増え方のほうが速いからだ。
新しく分からなくなったことの量で測ると、話は逆転する。良い問いが増え続け、未知領域が拡張し続けているという体感がある期間こそ、前に進んだ期間である。
問いの質と量は、そのまま到達した地点の高さを映す。
学びが拡張することで逆に問いが増えている状態は、気分としては正直不安定だが、その不安定さは後退のしるしではなく、地平が動いているしるしと再認識してほしい。
この半年で、新しく分からなくなったことを書き出してみてほしい。一つも出てこないなら、止まっているのは学びのほうだ。
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よくある質問
見える範囲が広がるほど、未知と接する境界も長くなるからです。知識を円に例えると、円が大きくなるほど外周も長くなります。
できません。記述は自分自身を閉じきれず、その外側に必ず新しい未知が生まれるからです。
分かったことの量ではなく、新しく分からなくなったことの量で測ると、前に進んでいるかが分かります。


