現状維持バイアスは、なぜ意志では勝てないのか── 行動経済学が説明しきれない、深層の話
「変わったほうがいい」と頭では分かっている。
それなのに、動けない。
このとき作動しているのが、現状維持バイアス だ。
行動経済学では、このバイアスは1988年、サミュエルソンとゼックハウザーによって定式化された。人間は、同じ価値の選択肢が並んでいるとき、現状を維持する側を選ぶ傾向がある。これは合理的経済人モデルからの大きな逸脱として、学術的にも繰り返し検証されている。
ところが、この説明だけでは足りない部分がある。
行動経済学が示す、三つの原因
行動経済学が主に挙げる、現状維持バイアスの原因は三つ。
ひとつは、損失回避性。カーネマンとトベルスキーが示したように、人は得る利益よりも、失う損失のほうを2倍以上強く感じる。だから「変わって得られるもの」よりも「変わって失うもの」が大きく見える。
ふたつは、選択疲れ。決定にはエネルギーが必要だから、現状という「決めなくていい選択肢」が選ばれる。
みっつは、保有効果。すでに持っているものに、本来の価値以上の価値を感じる傾向。
この三つだけでも、なぜ人が動けないのかは部分的に説明できる。
しかし、本当に動けない人が直面しているのは、ここで語られているレベルの話ではない。
知識では、外せない
考えてほしい。
「損失回避性を知れば、変われる」だろうか。
「これは保有効果だ、と気づけば、行動できる」だろうか。
ほとんどの人にとって、答えは ノー だ。
行動経済学を学んだ人ですら、自分の現状維持バイアスは外せない。バイアスの存在を知ることと、それを外せることは、まったく別の話だ。
なぜか。
バイアスは、意識のレベルで作動していない からだ。
バイアスが作動している層
行動経済学は、観察された行動を 記述する 学問だ。なぜ人が損失を回避するか、その根拠まで深く追わない。「そういう傾向がある」という統計的事実を整理する。
しかし、本当に動けない人にとって必要なのは、その記述ではない。バイアスが作動している場所 を、もっと深く理解することだ。
それは、認知の問題ではなく、生存戦略の問題でもある。
情報処理の問題ではなく、何百万年も時間をかけて精緻化された、種としての反応の問題でもある。
個人の問題ではなく、社会全体が作り出す圧力との関係の問題でもある。
これらの層は、行動経済学のフレームには収まりきらない。
戦う場所が、間違っている
「もっと意志を強く」「もっと努力を」と自分に言い聞かせても、現状維持バイアスは外れない。
自己啓発本を100冊読んでも、変われない人が多いのは、ここに理由がある。
戦う場所が、間違っているのだ。
意志の領域ではなく、もっと深い、装置のレベルで動いているものを扱わなければ、抜け出せない。
そして、その装置を直接見るための語彙は、行動経済学の語彙とは別のところにある。
現状維持バイアスは、意志の弱さの話ではない。
それは、何が、どこから、自分を動かなくしているのか を見るための、はじまりの言葉にすぎない。
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