虚時間とは何か── ホーキングが宇宙の始まりに置いた奇妙な時間と、私たちが毎日生きている虚時間
「宇宙の始まりには、虚数の時間が流れていた」──。
『ホーキング、宇宙を語る』でこの奇妙な考えに出会い、頭を抱えた人は多いはずだ。虚時間。二乗するとマイナスになる、あの虚数の時間とは、いったい何なのか。
特異点を回避する、計算のための虚時間
まず、ホーキングの虚時間から整理しよう。
一般相対性理論に従えば、宇宙の始まりには密度と重力が無限大になる「特異点」が存在するはずだった。物理学が破綻する点だ。ホーキングとハートルの無境界仮説は、宇宙の極初期において時間軸が虚時間的な性格を帯びると考えることで、この特異点を回避し、境界のない滑らかな宇宙の起源を描いてみせた。
ここで押さえるべきは、物理学における虚時間の位置づけだ。
それは、実時間を数学的に変換して得られる計算技法として導入されている。ウィック回転と呼ばれる手続きがその代表で、物理学者たちは「虚時間が実在するのか」という問いには慎重に留保をつけてきた。道具としては絶大に有効。しかし、時間に本当は二つの軸がある、という主張ではない──これが物理学の側の虚時間だ。
「いま」に、なぜ厚みがあるのか
ところが、まったく別の場所から虚時間を要請する議論がある。
出発点は宇宙論ではない。「いま」という経験の構造だ。
私たちが日常的に使う時間t──過去から未来へ一方向に進む一次元の流れ──の上で、「現在」は幅のない一点として表される。
しかし、実際の「いま」はそうなっていない。いま起こりつつあることに、過ぎ去ったばかりのことがまだ重なり、来たるべきことがすでに食い込んでいる。メロディが旋律として聴こえ、鐘の音が響きとして聴こえるのは、この位相の共存があるからだ。
そしてこの共存は、t軸をどれだけ細かく刻んでも出てこない。幅のない瞬間をいくら稠密に並べても、そこから厚みは生じない。一次元の時間記述は、「いま」に対して閉じていないのだ。
村主の第五論文『虚時間』 ── T = t + it
村主の第五論文『虚時間』は、この事態から出発する。
閉じない記述は、それを補完する独立軸を最小限だけ要請する──最小拡張原理。かつて実数だけでは閉じなかった数の体系が、直交する軸を一本加えて複素平面として閉じたのと同じ形の拡張を、時間に適用する。
帰結は、時間の十全な記述が実時間軸tと虚時間軸itの合成として与えられる、というものだ。
T = t + it
私たちが経験する時間は常にこの二次元構造T──複素的時間──であり、時計の時間tはその一次元への射影にすぎない。「いま」の厚みは、it軸の上にはじめて位置づけられる。
ふたつの虚時間は、競合しない
二つの虚時間は、こうして別物であることが分かる。
ホーキングの虚時間は宇宙論の計算技法であり、実時間の数学的変換として導入される。論文『虚時間』のitは、「いま」の構造が要請する独立の記述軸であり、tとは互いに還元されない。射程も、導入のしかたも、目的も異なる。両者は競合しない。
── 物理学の技法が、なぜこれほど有効なのか
むしろ興味深いのは、物理学で虚時間という技法がなぜこれほど有効に機能するのかという問いだ。その有効性の背後に、時間構造そのものの二次元性という事態があるのではないか──論文はこの問いを、開いたまま提示している。
宇宙の始まりに置かれた虚時間と、いまこの瞬間に流れている虚時間。
虚時間は、遠い宇宙論の話ではない。あなたがこの文章を読んでいる「いま」の、厚みの話だ。
↓村主悠真第五論文『虚時間-記述の非閉鎖性と最小拡張原理-』はこちら↓

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