国家が終わっても、学校は続く。── maaaruのネットワークが示す、もう1つの問い
アフガニスタン。シリア。ハイチ。ウクライナ。ソマリア。
maaaruの支援校リストを眺めていると、ある事実に気づく。一般的には困難が多いとされ、渡航禁止区域に指定されている国や地域に、maaaruの支援校がある。政府が崩壊し、インフラが破壊され、国際社会が「支援困難」と匙を投げた地域に、子どもたちが通う学校がある。
maaaruというネットワークの構造が、国家の外側で機能するように設計されているからだ。そしてそれは、「教育とは何か」という問いを根本から問い直している。

国家は教育を守れるか
僕たちは無意識に、「教育は国家が提供するもの」だと思っている。
学校は国が建て、教師は国が雇い、カリキュラムは国が決め、費用は国が負担する。この前提が、僕たちの教育観の底にある。
しかし世界の3億人の子どもたちが学校に通えていない現実は、この前提を根底から否定している。
国家が機能しないとき、教育は止まる。戦争が始まれば学校は閉まる。政府が腐敗すれば予算は消える。政情が不安定になれば教師は逃げる。「国家が教育を提供する」というシステムは、国家が安定しているときにしか機能しない。
そして世界の多くの地域では、僕らが想像する以上に国家は安定していない。
ネットワークという別の答え
では、国家が機能しない場所で、教育はどう守られるか。
maaaruが示しているのは1つの答えだ。国家の代わりに、ネットワークが教育を支える。
アフガニスタンの学校が危機に直面したとき、アフガニスタン政府は助けられない。しかしmaaaruのネットワークは、日本の支援者とつながり、他国の経験とつながり、物資と知識と資金を届けることができる。
この構造は、国家主権という概念を回避している。国境を越えて、直接、学校と学校がつながる。政府と政府が交渉する必要がない。外交関係が悪化しても、経済制裁が発動されても、ネットワークは動き続ける。
これは単なる「国際支援」ではない。国際支援は国家と国家の間で行われる。maaaruがやっているのは、国家を迂回して、人と人が直接つながることだ。
「学区」という概念の解体
maaaruのホームページには「境界のない学区」という言葉がある。
最初、僕はこれを美しいスローガンとして掲げた。しかし今は、これが思想の核心だと思っている。
「学区」とは本来、地理的な境界だ。あなたはこの地域に住んでいるから、この学校に通える。それ以外の学校には通えない。学区は、教育機会の不平等を固定化する装置だ。
maaaruはこれを解体しようとしている。
ネパールの山岳地帯の子どもも、ルワンダの農村の子どもも、インドの都市スラムの子どもも、同じmaaaruのネットワークに属する。地理的な偶然が、教育の質を決めるべきではない。どこに生まれたかが、何を学べるかを決めるべきではない。理想論ではあることは百も承知の上で、その理想を追い続けたい。
これは教育論ではなく、存在論だ。人がどこに生まれるかは選べない。しかし生まれた場所が、その人の可能性を決めてしまう世界に、抗い続ける僕らでありたい。
国家の外側で生まれているもの
maaaruのような動きは、実は1つの歴史的な転換点を示している。
20世紀は「国民国家の時代」だった。教育も、医療も、インフラも、国家が提供するという前提で世界が設計された。しかしその設計は、機能しない国家の前では余りに無力だ。
21世紀に起きていることの一つは、国家の外側に「別のインフラ」が生まれていることだ。NGOのネットワーク、テクノロジー企業のプラットフォーム、宗教組織のコミュニティ——これらは国家に代わって、あるいは国家を越境して、人々の生活を支えるインフラになりつつある。
maaaruももちろんその1つとして更に世界で確立されることを目指している。
そのmaaaruの学校を一つでも多く世界に増やせるよう、一緒に動いてくれる仲間を一人でも多く待っている。
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