一「存在しない数」の話から始める
十六世紀のイタリアで、数学者たちは奇妙な数に出会った。二乗すると−1になる数である。どんな実数も、二乗すれば必ず0以上になる。だからそんな数は「存在しない」はずだった。実際、この数は長いあいだ数学者たち自身から拒まれ、デカルトはこれを嘲って「想像上の数(imaginary number)」——すなわち虚数と呼んだ。
ところが数世紀ののち、事態は反転する。オイラーとガウスが虚数に正確な居場所を与えると、虚数は数学の中心に入り、やがて物理学の基盤になった。今日、交流回路の設計も、量子力学の基礎方程式も、虚数なしには書けない。「虚」と呼ばれたものは、存在しないのではなかった。実の軸しか見ていない者から、見えなかっただけである。
この歴史は本サイトの主張ではなく、標準的な数学史である。ここから出発する。(関連記事:虚数は実在するのか)
二足りなかったのは、軸だった
虚数が市民権を得た決定的な一歩は、単純な図だった。数直線——実数の並ぶ一本の線——に対して、直交するもう一本の軸を立てる。横軸に実数、縦軸に虚数。するとすべての数は平面上の一点として、何の矛盾もなく存在できた。
数直線に直交する軸を一本立てると、「存在しない」とされた数は平面上に居場所を得た。
つまり虚数は、無理に数直線の上へ押し込もうとするから「存在しない」ように見えたのである。必要だったのは新しい数ではなく、新しい軸だった。
三では、現実の記述は完成しているか
ここで問いを変える。数の世界ではなく、存在そのものの記述について。
近代科学は、世界を測定し、記述することで成功してきた。この世界像を徹底すれば、「世界は記述され尽くせる」という立場に行き着く。これを実数主義(R-ealism)と呼ぶ。
だが、どれほど精緻に記述しても、対象には必ず、まだ意味として立ち上がっていない余剰が残る。記述は、自らの結果に先立つ「立ち上がりの手前」を、原理的に取り残す——これが記述の非閉鎖性である。
どれほど精密に記述しても、破線の領域——まだ意味になっていない余剰——は必ず残る。記述は閉じない。
注意すべきは、この余剰が「これだ」と指し示せる何かではない、という点である。指し示し、言葉にし、想像した瞬間、それはすでに意味を持つものとして実次元の側に属している。だから余剰は、内容としては決して提示できない。提示できないにもかかわらず、記述がどこまでも閉じないという事実そのものが、その存在を構造的に示している。
ゆえに結論はこうなる——実数主義は誤っているのではなく、狭いのである。
四Z=D+iD——最小の拡張
そこで、数学が虚数に対して行ったのと同型の操作を、存在の記述に対して行う。すなわち、現実に対して直交するもう一つの軸を立てる。
DはDimension(次元)のDである。実次元Dは、現時点で意味を持つ構造的側面の総体——測定され、記述され、物理学が扱ってきた次元。虚次元iDは、その記述に必ず伴う、非意味・非顕在・非定義のままの構造的余剰の軸である。そして存在の全体Zは、この両者の重ね合わせとして書かれる。
虚次元は、例を挙げて示すことができない。例として挙げられた瞬間、それは意味を持つものとなり、実次元に属してしまうからである。だからこそ、導入できるのは「内容」ではなく「軸」だけなのである。
虚数の平面と同型の操作——実次元Dに、直交する虚次元iDの軸を一本だけ加える。
重要なのは、これが空想の付け足しではなく最小の拡張だという点である。新しい実体を何も仮定せず、既にある現実Dに、軸を一本だけ加える。閉じない記述は、それを補完する軸を最小限だけ要請する——この要請は最小拡張原理と呼ばれる。
この定式の詳細と、具体的な適用例(虚時間)は、次のページ「Z=D+iD」で扱う。
五これは、何ではないか
誤解を先回りして、はっきり書いておく。
オカルトではない。霊界や超常的な世界の存在を主張するものではない。虚次元は信じる対象ではなく、存在を記述するための形式的な枠組みである。
SFの平行世界でもない。もう一つの宇宙がどこかに隠れているという話ではない。虚部iDは「別の場所」ではなく、この現実Dに直交して常に伴っている軸である。
単なる比喩や詩でもない。拡張虚数理論は公理と定義をもつ理論体系として論文化され、識別子(DOI)つきで公開されている。批判と反証に開かれた、通常の学術的手続きの上にある。