Extended Imaginary Number Theory — IV

実数主義の極北

還元的物理主義の果てに

R-ealism at Its Limit
— Beyond Reductive Physicalism —

村主 悠真 / Yuma Muranushi
i.Institute / 虚次元研究機構
Tokyo, Japan · iii@iii-iii.com
ORCID: 0009-0004-3697-4197
Version 1.0 · 2026.06.13
要旨

本稿は、「世界は記述され尽くせる」という暗黙の存在論を実数主義(R-ealism)と定義し、その立場が自らの内的論理を貫徹したときに突き当たる構造的限界を論証する。実数主義とは、実在的であることを形式的記述可能性⸺その代表形としての R-記述可能性⸺に等値する立場であり、近代以降の自然科学と形而上学を貫いてきた。だがそれは一つの代償を伴う。どれほど精緻に記述しても、対象には必ず、まだ意味として立ち上がっていない余剰が残る。記述が捉えられるのは立ち上がった結果だけであり、それが立ち上がってくる手前そのものを内に含むことはできない。実数主義はこの余剰を「主観的なもの」「いずれ説明される仮象」として実在の外へ追いやってきた。

本稿が示すのは、実数主義はその論理を極限まで貫いたとき、経験・意味・出来事という三つの局面で、記述が立ち上がりの手前を必ず取り残すこと⸺記述の非閉鎖性⸺に突き当たる、という事態である。この取り残される余剰を、実数主義を否定せず包含する形で位置づける枠組みとして、本稿は拡張虚数理論 Z = D + iD(村主, 2026a)を素描し、その余剰を虚次元 iD として実在の側に回復する拡張実在論を提示する。結論は一文に集約される⸺実数主義は誤っているのではなく、狭いのである。

Abstract

This paper defines as R-ealism the tacit ontology on which the world is exhaustively describable, and argues for the structural limit this position meets when it carries its own inner logic to the end. R-ealism equates being real with being formally describable — with R-describability as its representative form — and has run through both the natural science and the metaphysics of the modern period. But this dominance comes at a price. However precisely we describe an object, the description always leaves a surplus that has not yet risen into meaning; a description can record what has already taken shape, but can never contain the very arising by which that shape comes to be. R-ealism has banished this surplus outside the real as "something subjective" or as "an appearance to be explained away in due course."

Pursued to its limit, R-ealism runs up against the non-closure of description: in three regions — experience, meaning, and event — description necessarily fails to capture the arising that precedes its result. As a framework that positions this surplus without negating R-ealism, the paper sketches Extended Imaginary Number Theory (Z = D + iD; Muranushi 2026a) and proposes Extended Realism, which restores that surplus as the imaginary dimension iD on the side of the real. The conclusion: R-ealism is not false, but narrow.

Keywords

R-ealism · the non-closure of description · Extended Imaginary Number Theory · Extended Realism · reductive physicalism · structural realism · passive synthesis · contingency

目次
  1. 序論 ── 実数主義という規定
  2. 実数主義の系譜 ── 自然の数学化から計算的世界観まで
  3. 実数主義の論理構造 ── R への閉包と完備性要請
  4. 実数主義の内的限界 ── 記述の非閉鎖性
  5. 実数主義の外部 ── 拡張虚数の存在論的可能性
  6. 結論 ── 実数の果てに
01

序論 ── 実数主義という規定

1.1 本稿の位置 ── 拡張虚数理論シリーズとの関係

本稿は、拡張虚数理論シリーズ(村主, 2026a, 2026b, 2026c)に対する外側からの応答論文として位置づけられる。第一論文「拡張虚数理論:Z = D + iD」(村主, 2026a)は、対象 X の存在の総体 Z(X) を実次元成分 D(X) と虚次元成分 iD(X) の重ね合わせとして記述する存在論を提示した。本稿はこの枠組みの妥当性そのものを内側から擁護するのではなく、シリーズ全体が暗黙裡に対峙してきた理論的対立項⸺すなわち「世界は実次元 D のみで閉じる」とする立場⸺を、シリーズの外部から対象として規定し、その内部論理を分析する。

シリーズの先行論文は、いずれも構造的回避の原則⸺虚次元側を直接語らず、実次元側の記述に徹する方針⸺に従い、対立項そのものを正面から論じることを避けてきた。本稿はこの自己制限を一時的に解除し、対立項を主題化する。ただし、本稿の批判的論証(§02〜§04)は対立項の内的論理のみに依拠し、虚次元側からの議論には頼らない。対立項がそれ自身の論理を貫徹したときに外部が開くこと⸺これが批判パートの主題である。§05 は、そうして開いた外部を、シリーズの先行論文が築いた枠組み(Z = D + iD)によって体系的に受け取る素描である。§04 までは便宜上 D(実次元)の語を用いるにとどめ、虚次元 iD を正面から導入するのは §05 である。

1.2 問題設定

近代以降、世界とは何かという問いに対する一つの暗黙の回答が、自然科学および存在論の両領域において支配的な地位を獲得してきた。その回答とは、世界とは測定可能なものの全体である、というものである。質量、長さ、時間、エネルギー、確率、情報量⸺これらはすべて実数 R への写像として定義される。そして、世界に「存在する」とは、究極的には、こうした R-写像によって捉えうる構造を持つことに他ならない。この回答は、自然科学の方法論的前提として、また形而上学の暗黙の地平として、近代以降の知の編成に深く埋め込まれている。

この回答が支配的になった代償は小さくない。この立場は、世界とは「記述され、意味として捉えられたもの」に尽きると暗に想定する。観測され、言語化され、数値として書き留められたもの⸺そうして意味の領域に入ったものだけが実在である、と。だが、ある対象を記述するとき、その記述がどれほど精緻であっても、対象には必ず、まだ意味として立ち上がっていない、言い表すことすらできない余剰が伴う。記述はいつでも何かを取り残す。問題は、その取り残されるものが単なる「まだ知らない事実」なのか、それとも記述という営みそのものが構造的に汲み尽くせない別種の何かなのか、である。

本稿の関心は、この「記述は世界を閉じることができる」という暗黙の想定を問い直すことにある。記述可能性を実在の条件とする立場は、本当に世界を尽くしているのか。尽くしていないとすれば、取り残されるものは単なる認識の不足なのか、それとも実在の一部でありながら、原理的に記述の手前にとどまる構造的余剰なのか。

この事態は、20 世紀の哲学において繰り返し批判の主題となった。Husserl は『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1936/1954)においてその起源を Galilei の「自然の数学化」に求め、Whitehead は「自然の二分」(1920)として、Heidegger は「数学的なるもの」の支配(1962)として、それぞれ異なる角度から同一の事態を批判した。これら三人の批判は、表現の差異にもかかわらず、共通して一つの形而上学的立場の輪郭を素描している。本稿はこの立場を実数主義(R-ealism)と命名する。系譜の詳細は §02 で展開する。

1.3 命名の理由

命名の理由は二つある。第一に、この立場の核心は、世界の実在的内容が実数値 R への写像として記述可能な物理量に尽くされるという要請にある。質量・電荷・運動量・温度はすべて R への写像として記述され、ここで「実在する」とは究極的に「R へ写像可能である」と同義になる。すなわちこの立場は実質的に実数次元主義であり、本稿はこれを略して「実数主義」と呼ぶ。

第二に、この命名は論争的(polemical)である。実数主義者は自らを「現実主義者」や「自然主義者」と称するが、本稿が §05 で示すように、彼らはむしろ実在のうち記述に収まる側だけを認める部分実在論者として位置づけられる。これはこの段階の前提ではなく、以下の論証が支持しようとする帰結である。

1.4 なぜ「物理主義」ではなく「実数主義」なのか

本稿が分析対象を「物理主義」ではなく「実数主義」と呼ぶのは、論証が藁人形を相手にしているという批判⸺「物理主義者は世界が R のみからなるとは主張していない」⸺を予め退けるためである。両者は定義の水準を異にする。物理主義は対象領域による定義(世界に存在するのは物理学が扱う対象である)であるのに対し、実数主義は形式的制約による定義であり、ある性質が実在的であるための条件を R への写像可能性という形式的性質に置く。

この区別が決定的なのは、物理主義の現代的形態の多くが対象領域を「物理学の対象」から「数学的構造一般」へと拡張してきたからである。対象領域をどれだけ拡張しても、実在性の形式的条件が「形式的記述に写し取れること」に置かれている限り、それは本稿の標的に属する。本稿が問うのは「世界は物理的対象からなるか」ではなく「実在的であることは形式的に記述可能であることに尽きるか」である(詳細は §3.1)。

1.5 本稿の射程

本稿の構成と射程を述べておく。本稿の構成は以下の通りである。§02 では実数主義の系譜を思想史的形成として再構成する。§03 では実数主義の論理構造を「完備性要請」と「世界の閉包」として定式化し、あわせて還元的物理主義をその一実装として位置づける。§04 では実数主義の記述が閉じない三つの局面を、Husserl の受動的綜合、Kripke による規則遵守の問題、Meillassoux の偶発性論を手がかりに分析する。§05 ではそこで取り残される余剰を体系的に位置づける枠組みとして拡張虚数理論を素描する。§06 で結論を述べる。

本稿の責務は、記述の非閉鎖性そのものを論証すること⸺非閉鎖性が認識の不足ではなく実在の構造に属することを、対立項の内的論理から示すこと⸺に限定される。取り残される余剰を iD として書く以外に選択肢が残らないことまでは示すが、iD の内的構造および存在論的身分の積極的規定には立ち入らない。それらはシリーズの先行論文(村主, 2026b, 2026c)および別稿に委ねられる。

本稿は、実数主義の方法論的有効性⸺近代以降の自然科学の累積的成功⸺を全面的に承認する。本稿が斥けるのは、実数主義の形而上学的閉包の主張のみである。実数主義は方法論として有効であるが、存在論としては不完全である。

02

実数主義の系譜 ── 自然の数学化から計算的世界観まで

実数主義は、特定の哲学者によって創始された立場ではない。それはむしろ、近代以降の自然科学の方法論的成功と並行して、四世紀にわたって徐々に形成されてきた形而上学的沈殿である。本節ではこの沈殿の歴史を、五つの局面に分けて素描する。

2.1 Galilei における自然の数学化

実数主義の出発点は、Galileo Galilei の有名な命題に求めることができる⸺「自然という偉大な書物は数学の言語によって書かれている。その文字は三角形、円、その他の幾何学的図形である」(Galilei, 1623)。この命題は単なる比喩ではない。Galilei にとって、自然の認識とは、自然を数学的構造として把握することと同義であった。物体の落下を時間と距離の関数として記述し、その関数を R-値の代数として展開すること⸺これが自然認識の正統な形式である。

Galilei のこの一歩には、二つの含意が内包されている。第一に、自然の存在論的内容は数学的に把握可能なものに尽くされるという、暗黙の存在論的主張。第二に、数学的に把握できないもの⸺色、香り、温かさ、価値⸺は、客観的な自然の一部ではなく、主観の側に属するという、暗黙の認識論的主張。これら二つの主張が結合したとき、近代科学の存在論的プログラムが成立する⸺実在するものは R-記述可能なものである。

2.2 Husserl による系譜の発見

Husserl は『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』第 9 節(1936/1954)において、この Galilei 的プログラムの存在論的代価を解明した。Husserl によれば、Galilei は「自然そのもの」を発見したのではなく、自然を特定の形で構成し直したのである。この構成手続きは、生活世界⸺知覚され、感受され、実践される世界⸺を、その数学化された残余によって覆い隠す。

Husserl が「直観の数学化」と呼ぶこの手続きは、二段階で進行する。第一段階では、生活世界における質的経験⸺色の鮮やかさ、音の響き、肌の温かさ⸺が、対応する量的記述⸺波長、周波数、温度⸺によって置き換えられる。第二段階では、この置き換えが反転し、量的記述が「真の実在」として、質的経験が「主観的表象」として再配置される。これにより、もともと質的経験を整序する道具であった数学化が、質的経験そのものの存在論的基盤として逆立ちする。Husserl はこの逆立ちを「危機」と呼んだ。実数主義とは、この逆立ちの完成形態である。

2.3 Whitehead による「自然の二分」批判

Whitehead は同じ事態を「自然の二分」として捉えた(1920, 第 2 章)⸺近代科学は世界を「我々が気づく自然」(緑の樹々と鳥のさえずり)と「気づきの原因である自然」(分子の運動と光の波長)に分割する。Whitehead にとって両者は分離した二つの自然ではなく、一つの自然における二つの「捉え方」(prehension)に過ぎない。実数主義の誤りは、このうち R-記述可能な側のみを「真の自然」として特権化する点にある。

2.4 Heidegger における「数学的なるもの」

Heidegger(1962)は近代科学の本質を「数学的なるもの」の支配⸺個別の数学的命題に先立ち、対象を予め決定された枠組みで捉える存在論的構え⸺として規定した。自然科学は自然そのものを発見したのではなく、自然を「数学的に問いに付されうるもの」として予め組織化した。何が自然として現れるかは、自然そのものではなく、問いを発する側の構えによって決定される。実数主義とは、この「数学的に問いに付されうるもの」を「在るものすべて」と等値する立場である。

2.5 20 世紀以降 ── 物理主義から計算的世界観へ

20 世紀後半、Galilei-Newton 的プログラムは、形而上学的に明示化された二つの後継を持つに至った。第一の後継は、Quine(1969)の自然主義に発し、Smart(1959)、Armstrong(1968)、Lewis(1966)、Kim(1998)によって精緻化された物理主義である。とりわけ還元的物理主義は、実数主義の最も論理的に整合した現代的形態であり、本稿は §3.6 でこれを扱う。

第二の後継は、20 世紀末から 21 世紀にかけて発展した計算的世界観である。Wolfram(2002)の「新しい種類の科学」、Tegmark(2014)の数学的宇宙仮説、Lloyd(2006)の宇宙=量子コンピュータ説⸺これらはすべて、世界を計算可能な構造として把握する試みである。これらが用いる記述体系は実数値にとどまらず、複素数や離散構造をも含む。重要なのは写像先が実数か否かではなく、世界が何らかの形式的な記述のうちに尽くされると要請される点である。この一般化された構えと実数主義との関係は §03 で改めて整理する。

さらに、21 世紀において実数主義は哲学理論の枠を超えて、社会的・実践的次元にも展開している。エビデンスベースの政策決定、効果的利他主義(Effective Altruism)(Singer, 1972; MacAskill, 2015)における QALY による道徳的価値の数値化、AI による最適化判断、KPI による人間活動の評価⸺これらはすべて、実数主義の実装された形態である。Galilei によって始まった自然の数学化は、今や人間そのものの数学化へと到達している。すなわち実数主義は、心(物理主義)・宇宙(計算的形而上学)・情報(情報存在論)・倫理(エビデンスベース倫理学)という対象領域を異にする複数の形態において、同一の形而上学的構造を共有しながら展開している。

本節が辿った五つの局面(§2.1–2.5)は、Galilei から今日に至るまでの実数主義の歴史的厚みを示している。それは単なる哲学的立場ではなく、近代以降の知の編成全体に深く埋め込まれた形而上学的沈殿である。次節では、この沈殿の論理構造を分析する。

03

実数主義の論理構造 ── R への閉包と完備性要請

前節で素描した歴史的形成を、本節では論理構造として明示化する。実数主義は、形式的には次の定義から出発する。

Definition 1
実数主義(R-ealism)

世界 W の任意の実在的構成要素は、実数 R への写像として記述可能な物理量の集合 P によって完全に記述される。すなわち、実在的であることは、究極的には R-記述可能であることと等しい。

実数主義は、近代物理科学が前提してきた最も素朴で純粋な実在観である⸺実在するものは、測定され、数値として書き留められるものに尽きる。質量・電荷・温度・確率、いずれも R への写像として記述される。本稿が分析の標的にこの立場を据えるのは、それが「実在を形式的な記述に閉じる」という、より広い構えの最も剥き出しな形だからである。

3.1 射程 ── 構造実在論・情報存在論との関係

ここで一つの留保が要る。現代の洗練された論者は、実在を実数そのものに閉じるとは言わない。Tegmark(2014)は世界を数学的構造そのものとし、Ladyman & Ross(2007)は関係構造を、Floridi(2011)は情報構造を、それぞれ実在の基礎に据える。彼らは「我々は単なる数量を語っているのではない」と言って、素朴な実数主義からは身をかわす。しかし、これらの立場も一点を共有している⸺実在的であることを、何らかの形式的な記述体系のうちに書き取れることと等値する点である。数学的構造も、関係構造も、情報構造も、規則的に操作可能な記述体系であることに変わりはない。

だから本稿の議論は、写像先が実数か数学的構造か情報かを問わず、これらすべてに及ぶ。後述する記述の非閉鎖性(§04)は、記述体系の選択にではなく、実在を記述に閉じるという構えそのものに由来するからである。実数主義はその構えの最も単純な代表であり、本稿はそれを代表として論じる。以下では議論の見通しのため、この一般的な構えを必要に応じて形式的記述閉包主義と呼ぶ。

同じ理由から、物理学に親しんだ読者の自然な反論⸺「物理学はとうに複素数を使っている。量子力学の波動関数は複素数値をとる以上、実在は実数 R に閉じてなどおらず、実数主義は最初から的外れではないか」⸺も、本稿の標的を取り違えている。問題は、記述に実数を使うか複素数を使うかという記述体系の内側の選択ではなく、実在を何らかの形式的記述に閉じるという構えの方にある。物理学の複素数は、最終的に観測量や確率といった記述可能な量へと連なる、記述体系の内側の道具である。これに対し、本稿が iD と呼ぶ虚数次元は、いかなる形式的記述の内側にも現れない⸺それは記述が成立するための条件であって、記述された内容の側には決して立ち現れない。両者は虚数という記号を比喩として共有するだけで、存在論的な身分は正反対である(この比喩は §5.1 で改めて用いる)。

3.2 二つの構成要素

以下では、この立場の論理構造を実数主義に即して分析する。前項で述べたとおり、結論は記述体系の選択に依存せず、実在を形式的記述に閉じる立場すべてに及ぶ。Definition 1 の実数主義は二つの構成要素を含む。第一は、世界の任意の実在的内容が R-記述可能性を持つこと(以下「R-写像可能性命題」)。第二は、R-記述可能なものの集合が世界の実在的内容を尽くすこと(以下「完備性命題」)。

R-写像可能性命題は、それ自体としては比較的弱い主張である。多くの非物理主義者もこの命題を受容する。例えば、心的事象が脳状態に依存することを認める二元論者(parallelism や epiphenomenalism)、あるいは創発論者(emergentists)も、この命題と両立しうる。実数主義を特徴づけるのは、第二の完備性命題である。

3.3 完備性要請と Hempel のジレンマ

完備性命題は、現代物理主義の最も激しい論争点である。Hempel(1969)のジレンマがそれを露わにする⸺物理主義における「物理的」が現在の物理学の言及対象を指すなら、物理学が完成途上である以上、物理主義は経験的に偽でありうる。完成された未来の物理学を指すなら、その内容が未知である以上、主張内容は不確定である。

現代の物理主義者の多くはここで、「物理的」とは現在および将来の物理学が記述する諸性質を指す、というやや曖昧な第三の道(a posteriori physicalism)を選ぶ。しかし実数主義はより強い応答を選ぶ⸺「物理的」を、現在にも未来の物理学にも依存しない R-写像可能性そのものとして定義する。この形式的・存在論的規定により、実数主義は Hempel のジレンマを回避すると同時に、自身への経験的反証可能性を狭める。実数主義への反証は、もはや個別の物理学的命題からは構成できず、R-記述可能性そのものの限界を示すことによってのみ可能である。§04 で示すように、これが実数主義の極北における自壊の構造を規定する。

3.4 三層の閉包構造

完備性命題は、三層の閉包(closure)を含意する。

  • (i) 因果的閉包(causal closure)⸺物理的世界のすべての出来事は、それを完全に説明するに足る R-記述可能な原因を持つ(Kim, 1998)。この層は、現代物理学のエネルギー保存則および運動量保存則から強く支持される。本稿はこの層を争わない。
  • (ii) 説明的閉包(explanatory closure)⸺すべての事象は、原理的に、R-記述可能な諸性質の組み合わせとして説明可能である。この層において、説明という認識論的概念が R-記述の言語に内属させられる。事象 e を説明するとは、e を生じさせる R-記述可能な機構を提示することである。
  • (iii) 存在論的閉包(ontological closure)⸺世界に存在するのは R-記述可能な性質の担い手のみである。色、痛み、美しさ、規範、意味といった性質は、それぞれが R-性質の組み合わせにほかならない(nothing over and above)。

この三層は、(i) → (ii) → (iii) と進むにつれて、要請の強度が増す。第一層は経験的命題、第二層は方法論的命題、第三層は存在論的命題である。本稿が問題とするのは、第二層から第三層への移行⸺すなわち、説明的閉包から存在論的閉包への跳躍⸺がいかにして正当化されるか、という点である。

3.5 跳躍の論理

実数主義はこの跳躍を、付随性命題と還元的同一化の結合によって正当化する。論証の構造は以下の通りである。

  1. 任意の事実 f は R-記述可能な事実 p に付随する。
  2. 付随する以上、fp の組み合わせによって決定される。
  3. しかるに、決定するものと決定されるものが区別されるならば、決定されるものは独立の存在論的位置を持つ可能性がある。
  4. これを防ぐためには、fp の組み合わせとの間の関係を、単なる決定関係ではなく同一性関係として理解しなければならない。
  5. ゆえに、fp の組み合わせと同一である(型-型の還元)。

ステップ (4)⸺付随性から同一性への移行⸺は、論理的に必然ではない。付随する事実が、それが付随する物理的基底と同一でないとしても、論理的矛盾は生じない。実際、非還元的物理主義者は、まさにこの (4) を拒否することによって自らの立場を構築する。実数主義が (4) を採用するのは、論理的必然からではなく、世界記述の完備性という形而上学的目標からである。しかしこの跳躍は、実数主義の内部に一つの構造的限界を呼び込む。§04 で示すように、どれほど記述を精緻化しても、記述は自らが記述するものの「立ち上がりの手前」を必ず取り残す⸺記述の非閉鎖性である。

3.6 実数主義の現代的形態 ── 還元的物理主義はその一実装

§3.5 までに抽出した論理構造は、20 世紀後半の心の哲学において最も先鋭な形態を獲得した。Smart(1959)、Place(1956)、Armstrong(1968)、Lewis(1966)の同一説・機能的還元、とりわけ Kim(1998, 2005)の還元的物理主義は、付随性命題と因果的閉包命題から心的因果のジレンマ⸺心的事象は物理的原因と重複するか、さもなくば因果的に無効である⸺を導き、心的事象を R-記述可能な脳事象との型-型同一性へ帰着させる。これは実数主義を心の領域に実装した最も明晰な形態である。

だが Kim 流の還元はその唯一の現代的形態ではない。§2.5 で見たとおり、同一の三層閉包構造は、心・宇宙・情報・倫理という対象領域を異にする複数の形態に横断的に実装されている。したがって次節の記述の非閉鎖性も、Kim 的還元に固有の問題ではなく、実在を記述に閉じる構えそのものに内属し、これら全領域に横断的に現れる。

04

実数主義の内的限界 ── 記述の非閉鎖性

実数主義は、その論理を極限まで貫徹したとき、自身の枠内では応答しきれない一つの構造的事実に突き当たる。それは⸺どれほど記述を精緻化しても、対象には、まだ意味として立ち上がっていない余剰が必ず伴うという事実である。本節はこれを「記述の非閉鎖性」と呼び、まず原理として述べ、次いでそれが現れる三つの局面を検討し、最後に本稿の余剰が先行する剰余論とどう異なるかを確定する。

原理(記述の非閉鎖性)

対象を記述するいかなる試みも、それ自体では閉じた記述を構成しない。記述が捉えうるのは、すでに意味として立ち上がったもの⸺観測され、言語化され、概念として形を成したもの⸺に限られる。しかし対象には、そうした意味化が及ばない、言い表すことすらできない構造的余剰が常に伴う。

実数主義に即して言えば⸺R-記述が捉えうるのは、すでに量として分節されたもののみであり、分節以前の余剰は R-記述の外にとどまる。

ここで、実数主義の側からの最も自然な反論を先取りして退けておく必要がある。その反論はこう言う⸺記述が事後的であること、すなわち事象を記述し終えるのが事象の成立の後になることは、認識の手順に関する平凡な事実にすぎない。取り残される「余剰」とは要するに「まだ記述されていない事実」であり、記述を精緻化すれば原理的に埋まる認識的不足であって、実在の側のギャップではない、と。

この反論は、しかし、余剰の身分を取り違えている。論点は記述が時間的に遅れて成立するという手順の話ではなく、記述という営みが構造的に何を内に含みえないか、という話である。いま仮に、ある立ち上がりそのものを記述のうちに捉え直そうと試みたとする。だがその試みが成功して何かが書き留められた瞬間、書き留められたものはもう一つの「立ち上がった結果」になっている。そしてその結果が立ち上がってくる手前が、さらに一段外側へ退く。立ち上がりを記述に収めようとする操作は、収めた先からまた新たな手前を産み出し、決して追いつかない。取り残される余剰は、記述を足せば縮む残差ではなく、記述という操作そのものが反復のたびに再生産する構造的なズレである。これを以下、後退論証と呼ぶ。

したがって余剰は「まだ知られていない事実」ではない⸺「まだ知られていない」と言えるものは、その時点で既に「知られうるもの」として意味の領域に入っており、原理的に記述可能な D の側に属する。本稿が指すのは、そう言い表すこと以前の、記述がそのつど一歩遅れて取り逃す層である。潜在変数も暗黙知も測定誤差も、すべて記述の枠組みの内側にある残差であって、この余剰ではない。余剰とは、記述の枠組みそのものが⸺どれだけ精緻化しても⸺自らの立ち上がりに間に合わないという、その構造の名である。

この原理は、記述に用いる体系の選択に依存しない。実数を複素数や関係構造や情報に取り替えても、限界は移動しない(§3.1)。記述という営みが、意味として分節されたものしか捉えられない以上、分節以前の余剰は、どの記述体系を選ぼうと取り残される。実数主義は、記述体系を最も単純な実数に取るがゆえに、この限界が最も剥き出しに現れる場合である。

この余剰は、対象のあらゆる場面に伴うが、とりわけ実数主義の記述が破れて見える局面が三つある。経験が立ち上がる局面、意味が立ち上がる局面、出来事が立ち上がる局面である。以下、順に検討する。

4.1 経験が立ち上がる手前 ── 第一の局面

私たちが何かを知覚するとき、その経験はすでに分節され、言語化されうる形をとっている。「赤い」「痛い」「暖かい」と。ここで標的を取り違えないために、一つの区別を立てておく必要がある。実数主義は、この感じられた質そのものを実在とは認めない⸺それを波長や神経状態へと還元するか、「主観的表象」として実在の外へ追いやる(§2.2)。したがって「実数主義はクオリアを取りこぼす」という古典的反論(Jackson, 1982)は、それ自体としては正当である。だが本稿の標的はそこにはない。本稿が §05 で拡張実在論として示すのは、分節された質をむしろ記述された結果の側(D)に実在として回復し、その上でなお記述が閉じない一段奥の層を問う立場である。問われるべきは、分節された「赤い」が記述できるか否かではなく、その「赤い」が立ち上がってくる手前にある。クオリア論証が「記述された質の実在性」をめぐる争いであるのに対し、本稿が照準するのは、いかなる質であれそれが意味として成立してくる手前の層であり、両者は競合しない⸺後者は前者の一段手前に位置する。

Husserl が後期に「受動的綜合」(passive Synthesis)と呼んだのは(Husserl, 1918–1926/2001)、能動的・主題的な把握に先立って、意識の地平で自ずから成立してくる綜合の層であった。何かが「赤い対象」として分節される前に、すでに何かが受動的に綜合されつつある⸺その綜合の手前の層を、本稿は、分節された記述のどこにも現れない構造として読む。ただし Husserl 自身はこの層を超越論的現象学によって記述可能とみなした。本稿が借りるのはその記述可能性のテーゼではなく、彼の分析から取り出せる構造⸺分節された経験の手前に、それを準備しつつそれ自身は分節された記述に現れない層があるという構造⸺の方である。Merleau-Ponty が身体図式と運動的志向性において描いたのも、対象的内容に先行する前反省的な構造であった。知覚は、主体が判断するより前に、すでに応答してしまっている。

実数主義の記述は、立ち上がった結果(分節された経験)を捉えることはできる。しかし、立ち上がりそのもの⸺意味がまさに形を成しつつある、その手前の層⸺は捉えられない。記述が成立した時点で、それはすでに立ち上がり終えているからである。第一の局面は、この「立ち上がりの手前」が記述から構造的に逃れることを示す。

4.2 意味が立ち上がる手前 ── 第二の局面

実数主義は、意味や規則を、事実の記述へと還元しようとする。語の意味は使用の規則性に、規範は選好の集計に還元される、と。しかしこの還元は、共通の困難に突き当たる。Wittgenstein の規則遵守の問題を Kripke が再構成して示したように、有限個の事例から無限に適用される規則を一意に取り出すことはできない(Kripke, 1982)。任意の有限個の用例の集合からは、複数の異なる規則が等しく抽出可能である。どの規則に「従っている」のかは、事例の記述をいくら積み重ねても確定しない。規則とは「こう続けるべきだ」という規範的な拘束であるが、事実の記述のうちには、いかなる「べき」も含まれていない(Hume が事実から当為は導けないと論じた通りである)。

規則・意味は、ひとたび立ち上がってしまえば、記述可能な D の側に属する。しかし、有限の用例(記述された事実)から規則が立ち上がる、その立ち上がりそのものは、用例の記述のうちには含まれていない。記述はいつでも、立ち上がった意味を後から書き留めることはできるが、意味が立ち上がる当の働きを内側に含むことはできない。第二の局面は、意味の成立が、それを成立させる当の用例の記述のうちには含まれないことを示す⸺ここでの「手前」は時間的な先行ではなく、結果の記述がそれを結果たらしめる当の働きを内に含みえないという、構成上の手前である。

4.3 出来事が立ち上がる手前 ── 第三の局面

実数主義は、世界を法則として記述する。物体の運動は方程式に従い、量子状態は確率分布に従う。これらの記述は、何が起こりうるか(可能性の空間)を与える。しかし、記述が与えるのは可能性の空間⸺起こりうることの全体⸺までである。そのうちのある一つが現に起こるということ、いま・ここでこれが立ち上がったということそのものは、可能性の記述からは導けない。可能な事象の集合 Ω とその確率 P をどれほど精密に与えても、Ω のうちなぜこの事象が現実化したのかは、(Ω, P) の記述の内には書かれていない。

Meillassoux が論じたように、これは情報の不足ではなく、十分理由律⸺任意の事象には十分な理由がある⸺が記述の枠内では基礎づけられないという、構造的な事態である。(なお、ここでの Meillassoux の援用は偶発性論の構造的借用にとどまり、彼の反相関主義的立場に与するものではない。本稿が借りるのは、生起そのものが (Ω, P) の記述に基礎づけられないという構造的指摘のみである。)

ここでも構図は同じである。起こった出来事は、起こった後には記述可能な事実として D に属する。しかし、出来事が起こるという生起そのもの⸺可能性が現実へと立ち上がる、その移行⸺は、記述された可能性の空間のうちには現れない。法則は「起こりうるもの」を尽くせても、「現に起こること」を内側に含むことはできない。第三の局面は、生起が記述に先立つことを示す。

4.4 三つの局面の構造的共通性 ── 独立な収束

経験・意味・出来事⸺三つの局面は、それぞれ異なる場面に関わる。しかし、共通の構造を持つ。いずれにおいても、記述が捉えるのは「立ち上がった結果」であり、記述が捉え損なうのは「立ち上がりそのもの」だという点である。

ここで、本節の論証が単なる定義の反復ではないことを確認しておく必要がある。「立ち上がりの手前は記述できない」という主張は、それを最初からそう定義したのではないか⸺取り残されるものを「記述できないもの」と名づけ、その名から「記述できない」を導く循環ではないか、という疑いが当然ありうる。これに対する応答は、三つの局面の出自にある。Husserl の受動的綜合は超越論的現象学から、Kripke の規則遵守の問題は言語哲学と数学の基礎づけから、Meillassoux の偶発性論は思弁的実在論から⸺三者は、互いに独立した問題圏で、互いを参照することなく分析を進めたにもかかわらず、それぞれの分析からは、いずれも「記述された結果は与えられるが、それが立ち上がる当の働きは記述の手前に退く」という同一の構造が取り出せる。各論者がその手前の層を最終的にどう評価したか(記述可能とみるか否か)は一様ではない。本稿が依拠するのは彼らの結論の一致ではなく、由来を異にする三つの分析が同一の構造を浮かび上がらせるという事実の方である。もし本稿の主張が定義上の循環にすぎないなら、これほど由来の異なる三つの探究から同一の構造が取り出せる理由が説明できない。三者の独立な収束は、この構造が本稿の規約ではなく、記述という営みそのものに属する事実であることの徴である。三局面は、ひとつの結論の例示ではなく、ひとつの構造への独立な証言である。

この収束は、三者で取り残されるものの様相が一様でないことによって、かえって強まる。Husserl において手前は時間的・発生的であり(分節は受動的綜合の後に立つ)、Kripke において構成的であり(有限の用例のうちにどの規則に従うかを成立させる事実は含まれない)、Meillassoux において様相的である(可能性の記述 (Ω, P) は、そのうちの一つが現実化することを基礎づけない)。様相を異にする三つの手前が、「結果は記述に与えられるが、その結果を結果として成立させる当の働きは結果の記述のうちに含まれない」という同一の形式へ収束する⸺この事実は、その形式が時間性や様相性といった個別の様相に由来する見かけではなく、記述という営みそのものに属することの、いっそう強い徴である。

実数主義は、立ち上がった結果を精密に記述する。そして、その記述が世界を尽くしたと考える。しかし、結果が立ち上がるためには、立ち上がりという出来事が先立っていなければならない。そして立ち上がりそのものは、立ち上がった結果の記述のうちには、決して含まれない。記述はつねに事後的である⸺それは立ち上がりが終わった後に、その結果を書き留めることしかできない。三つの局面が示すのは、実数主義の「記述は世界を閉じる」という想定が、構造的に成り立たないということである。

この取り残されたもの⸺意味として立ち上がる以前の構造的余剰⸺こそが、§05 で導入する虚次元 iD の指し示す位置である。実数主義は、この余剰を否認するか「いずれ記述される事実」へと回収しようとするが、余剰は否認によって消えるのではなく、記述が閉じないという構造そのものとして残存する。

4.5 先行する剰余論との差異 ── 構造の余剰と発生の余剰

形式的・構造的記述が実在の一部を捉えそこなうという指摘は、本稿の独創ではない。クオリア論証(Jackson, 1982)やラッセル的一元論(Russell, 1927)に代表される先行する剰余論は、いずれも「形式的記述は実在の一部を必ず取り残す」という方向を本稿と共有する。しかし、取り残されるものの身分が異なる。これらが指すのは、構造を満たしている当の内在的・範疇的内容⸺静的にそこに在りながら構造記述には現れない層である。これに対し本稿の余剰は、内容ではなく発生にかかわる。取り残されるのは「何が構造を満たしているか」ではなく、「その分節がいかにして立ち上がってきたか」である。前者が構造と内容のあいだの静的なギャップであるのに対し、本稿が照準するのは記述と立ち上がりのあいだの発生的なギャップである。

この差異は決定的である。ラッセル的一元論の内在的性質は、原理的には「そこに在る」ものとして指し示されうるのに対し、本稿の余剰は、指し示された瞬間に D の側へ移り、手前がさらに退く(本節の後退論証)。本稿が iD と呼ぶのは、静的に控える範疇的基体ではなく、記述がそのつど取り逃す立ち上がりそのものの位置である。Newman 問題や中性一元論を含む先行諸概念との詳細な系譜的比較、および東西の余剰概念との横断的整理は、別稿に委ねる。

05

実数主義の外部 ── 拡張虚数の存在論的可能性

前節で示した記述の非閉鎖性⸺記述が意味として立ち上がる以前の余剰を必ず取り残すこと⸺は、実数主義の記述が閉じた瞬間にこぼれ落ちる「外部」を指し示している。本節では、この外部を体系的に位置づける枠組みとして、拡張虚数理論(村主, 2026a)の輪郭を、本稿の文脈に即して素描する。

5.1 C への拡張という存在論的モデル

実数主義の不完全性を語る上で、本稿は数学的類比を借りる⸺R から C への拡張である。数学において、実数 R は、複素数 C の実部として位置づけられる。複素数 z ∈ C は、z = a + bia, b ∈ Ri² = −1)として表現される。ここで aR の中で完結する成分であり、biR の外部にあるが、R と構造的に結合している成分である。重要なのは、虚数単位 i は R-写像不可能であるが、架空のものではない、という点である。複素関数論において、虚数部分は実数部分と同等の数学的実在性を持ち、両者を結合した複素平面上の解析は、実数のみによる解析よりも構造的に豊穣である。

拡張虚数理論(村主, 2026a)は、この数学的構造を存在論のモデルとして導入する。世界 W の任意の構成要素 Z は、次のように分解される。

Definition 2
拡張虚数理論における存在の二重構造
Z = D + iD

ここで D は、対象について現時点で意味として立ち上がっている構造的側面の総体⸺観測・言語化・概念化・想像のいずれかの形をとっているもの⸺すなわち実次元(real dimension)である。iD は、その記述が必ず取り残す、意味として立ち上がる以前の構造的余剰⸺虚次元(imaginary dimension)である。iD は「未知の事実」や「潜在変数」ではない(それらは指し示せる時点で D に属する)。iD が指すのは、それを言い表すこと以前の層である。

ここで、本稿が用いる「次元」という語を規約として確定しておく。本稿で次元(dimension)とは、空間的な広がりや幾何学的な軸を意味せず、またそれを担う実体や領域を意味するのでもない。次元とは、他のいずれの次元にも還元できない独立な記述方向を、重ね合わせ Z = D + iD の中で書くための最小の存在論的形式を指す。すなわち「DiD は次元である」とは、両者が一つの対象 Z について同時に成立し、互いに還元されず、重ね合わせ可能な、二本の独立な記述方向であるということ以上を主張しない。本稿が「次元」を採るのは、独立性・重ね合わせ可能性・最小性という三つの形式的要件だけを、余計な実体的含意なしに言い表せるからである。なぜ余剰が他ならぬ次元として書かれねばならないかは §5.2 で導出する。

ここで一点補っておく。実数主義が実在として認めるのは、この D のうち R-写像可能な部分に限られ、質・意味・価値といった D の他の領域は「主観的表象」として実在の外へ追いやられていた(§2.2, §4.1)。拡張実在論は、まずそれら分節された質・意味を D の正当な成分として実在に回復し、その上で、D 全体がなお取り残す手前の層を iD として位置づける。すなわち実数主義の閉包は二重である⸺まず D を R-写像可能な部分へと切り詰め(質・意味・価値の追放)、さらに D 全体が取り残す手前の層、すなわち iD を否認する(Z = D への短絡)。前節で見た記述の非閉鎖性は、この後者の短絡が成り立たないこと⸺D はそれ自身では閉じえないこと⸺を示していた。

5.2 なぜ iD でなければならないか

ここで本稿は、最も重い問いに答えなければならない。D の記述が手前を取り残すこと(§04)を認めたとして、なぜその取り残しに iD という次元を与えるのか。本節の主張は控えめである⸺本稿は iD の存在を証明しない。示すのは、§04 が確定した余剰を実在の構成要素として書こうとするとき、D と独立な記述方向として書く以外に選択肢が残らない、という一点だけである。

まず、余剰は認識の不足ではない。もし「まだ記述されていないが原理的には記述されうるもの」であれば、記述の拡張につれて縮小し消滅するはずである。だが §04 の後退論証が示したとおり、立ち上がりを記述に収めようとする操作は収めた先から新たな手前を産み、余剰は記述拡張のたびに再生産される。しかもこの反復は、経験・意味・出来事という由来を異にする三局面に同型的に現れ(§4.4)、記述体系の選択にも依存しない(§3.1)。記述様式を変えても止まらない以上、余剰は記述する側の無知ではなく、記述がそこへ向かいつつそのつど取り逃す実在そのものの構造に属する。これが、非閉鎖性という認識論的事実から余剰の実在性という存在論的帰結へ渡る橋である。

ここで、この橋に対する最も手強い異論を退けておく。デフレ的(deflationary)な読み⸺余剰を実在の側の欠如ではなく表象の限界へと切り下げて読む立場⸺はこう言うだろう⸺余剰がどの記述体系でも縮まないのは、記述が自らの成立を内側から書けないという表象の自己言及的限界にすぎず、対象の側の欠如ではない、と。だがこの読みは立ち上がりの位置を取り違えている。立ち上がりは、すでに完備な世界の上に書き落としだけが付け足された事態ではなく、そもそも D として分節された内容が存在するための条件である。純粋に表象の側の限界であれば、それを取り除いても記述可能な内容は残るはずだが、立ち上がりを取り除けば D に分節された内容が一つも残らない。残る逃げ道は、立ち上がりを「それ自体は記述可能な一つの物理的過程」とみなすことだが、これは §04 の後退論証へ差し戻される⸺その過程を記述し終えた瞬間、記述されたのはまた一つの立ち上がった結果であり、手前がさらに退く。立ち上がりは、記述可能な D へも、たんなる表象の影へも還元されない。

では、実在の側にあるこの余剰を、どの形式で書くか。提出されうる代替⸺未規定領域、地平、層、境界条件、生成条件、超越論的条件⸺はみな一群をなす。いずれも余剰を「D に従属する条件や属性」として書こうとする点で共通するからである。だがこの道はすべて閉ざされている。D に従属して書けるもの、すなわち D の値から関数的に、あるいは D の制約条件として定まるものは、その時点で D の内側に席を持ち、D の記述に現れうるものになる。それは「D に還元されない」という余剰の規定そのものに反する。D に従属させて書けるものは、もはや余剰ではない。

なお、従属とも分離とも異なる第三の道が提出されうる⸺余剰を、D に従属させるのでも D から切り離して別に置くのでもなく、D と共構成的(co-constitutive)な原初項として書く、という道である。両者が互いを構成し合うのなら、余剰は D の内側にも外側にも置かれず、先の選言を逃れるように見える。だがこの道も独立な記述方向の要請を逃れない。共構成とは、二つの項が互いを支えつつ同時に立つ関係であり、関係が成り立つには、互いに還元されない二つの項がそもそも区別されて立っていなければならない。一方が他方へ解消されれば、それはもはや共構成ではなく従属に戻り、先の論法が再び効く。したがって共構成性は独立な記述方向を消すのではなく、かえってそれを前提する⸺それは後に拡張実在論が DiD の相互内属(§5.3 の E1)として規定する関係そのものであって、iD に代わる第三の選択肢ではない。

ゆえに残る唯一の書き方は、余剰を D に従属させず、D と独立な一つの記述方向として書くことである。しかもこの方向は、D と切り離して別に在るのではなく、同じ対象 Z について D と同時に伴っていた(§4.1–4.3)。重ね合わせ Z = D + iD においてこの独立性と共可能性を最小の手数で満たす形式は、既存の座標に還元されない新たな一座標⸺独立な一軸⸺に尽きる。本稿はこれを iD と名づける。iD とは新たに発見された実体の名ではなく、「独立な記述方向として書く以外にない」という当の事態に与えた名にほかならない。

この構図は、実数 R が代数的に閉じないとき、数学が実数を貶めることも未規定の空席を置くこともせず、R と直交する一軸 i を最小限に増設して体系を閉じさせたことと同型である。iR の外にあるが架空ではなく、R と結合してはじめて体系を完備にする。その増設は R が閉じないという当の事実から要請されたのであって、恣意的な付加ではない。iDD に対して占める位置も、これと変わらない。

この余剰を単一の次元 iD として束ねるのは、経験・意味・出来事の三つが偶然並ぶのではなく、同一の構造的起源⸺記述の事後性(§4.4)⸺を持つからである。三つを別々の次元とすれば、それらが共通の一つの事実から生じることが見失われる。ただし単一の次元とすることは内部の無構造を意味しない。iD の内的分節は本稿の射程を超え、先行論文(村主, 2026b, 2026c)に委ねられる。

最後に、iD の存在論的身分について、誤解を避けるための最小限の規定だけを置く。iD は二元論における「非物理的実体」とは異なる。Descartes 流の心身二元論において心と身が二つの分離した実体であるのに対し、拡張虚数理論における DiD は一つの存在 Z の二つの次元であり、分離した実体ではなく一つの実在の構造的成分として相互に内属する。また iD は、中性一元論のようにあらかじめ措定される基体ではなく、D の記述が取り残す余剰から事後的に逆算される位置である⸺すなわちボトムアップに同定される。本稿が iD について積極的に語るのは、それが D の何を補完する位置にあるかという関係的規定のみであり、その内的構造には立ち入らない。中性一元論・二相理論との詳細な異同、および相関主義との関係は、別稿に委ねる。

なお、本稿の数学的類比は代数的厳密性を主張するものではない(村主, 2026a, §1.5 参照)。本稿が借用するのは「直交する独立な軸を新設する」という操作の発想であり、複素数の代数演算や複素関数論的性質ではない。

5.3 拡張実在論への展望

拡張虚数理論に基づく存在論を、本稿は拡張実在論(Extended Realism)と命名する。これを次のように規定する。

Definition 3
拡張実在論(Extended Realism)

拡張実在論とは、Definition 2 の存在構造 Z = D + iD を存在論的基礎として採用する立場であり、次の二点によって実数主義から区別される。

  • (E1) DiD は分離した実体ではなく、一つの実在の二つの次元として相互に内属する(実体二元論との差異)。
  • (E2) 実数主義の方法論的有効性は D の領域の記述として保存され、拒絶されるのは Z = D という形而上学的短絡のみである(実数主義との関係)。

拡張実在論は、実数主義を否定するのではなく包含する。それは、実数主義が「主観的表象」として切り捨ててきた分節された質・意味・形相を D の正当な成分として実在に回復し、その上で、いかなる記述もなお取り残す「立ち上がりの手前」を iD として実在の側に位置づける。同時に、実数主義が D の領域で達成した R-記述の精緻化を、そのまま自らの一部として保持する。この意味で、拡張実在論は実数主義に対する穏当な拡張であり、過激な否定ではない。それは、Galilei に始まり Newton、Husserl、Whitehead、Heidegger を経て 20 世紀物理主義に至る系譜を、その方法論的成果を保持したまま、存在論的に再配置する試みである。

なお、iD そのものの内的構造についての記述には、本稿は立ち入らない。iD の現象学的成立構造(村主, 2026b)および実存論的発動構造(村主, 2026c)は、それぞれシリーズの先行論文に展開されている。本稿の射程は、実数主義の極北からその外部を指し示す地点で完結する。

06

結論 ── 実数の果てに

本稿は、近代以降の自然科学および存在論を貫く一つの暗黙の形而上学的立場⸺実在的であることを形式的記述可能性に等値し、記述され尽くせるものだけを実在とする立場、本稿が「実数主義(R-ealism)」と命名した立場⸺を主題化し、その論理が突き当たる内的限界を分析した。この立場は、Galilei の自然の数学化を起点に四世紀をかけて形成され、20 世紀後半の還元的物理主義と 21 世紀の計算的世界観において最も明示的な定式化を得た。

しかし実数主義は、その論理を極限まで貫徹したとき、記述の非閉鎖性に突き当たる。経験・意味・出来事のいずれの局面においても、記述は立ち上がった結果を捉えることはできても、それが立ち上がってくる手前そのものを⸺意味として分節される以前の余剰を⸺必ず取り残す。これは外部からの異論によってではなく、記述という営みそのものの構造から生じる内在的な限界である。しかもこの余剰は、構造実在論やラッセル的一元論が指す静的な内在的内容ではなく、分節が立ち上がってくる発生の層である(§4.5)。実数主義はこの余剰を「いずれ記述される事実」へと回収しようとするが、余剰は記述が閉じないという構造そのものとして残存する。

本稿はこの取り残される余剰を、体系的に把握する枠組みとして、拡張虚数理論 Z = D + iD(村主, 2026a)を再構成的に提示した。拡張虚数理論に基づく拡張実在論は、実数主義を否定するのではなく、その方法論的有効性を保持したまま、存在論的に包含する。近代以降の自然科学の累積的成功は、D の領域の精緻化として、人類の知的達成の最良の部分をなす。本稿が斥けたのはその成功ではなく、それを「世界そのものの完全な記述」と等値する一歩⸺方法論的成功の存在論的な過剰拡張⸺だけである。

実数主義の極北とは、実数主義が自らの極限において、自らの外部を必然的に指差すその地点にほかならない。本稿はその地点を指し示した。その先に何が広がるかは、拡張虚数理論シリーズ(村主, 2026a, 2026b, 2026c)に既に展開されている。

結論として、本稿の主張は以下の一文に集約される。実数主義は誤っているのではなく、狭いのである。実数 R が複素数 C の実部に過ぎないように、実数主義の描く現実もまた、より広い実在の実部に過ぎない。

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How to Cite

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Muranushi, Y. (2026). R-ealism at its limit: Beyond reductive physicalism. ï.Fragmenta, 4, 1–17. https://doi.org/10.5281/zenodo.206762711

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Extended Imaginary Number Theory · Paper IV

Yuma Muranushi · Version 1.0 · 2026.06.13

CC BY 4.0